三浦一族のエピソード

掲載日:2018年3月17日

【鎌倉幕府成立のころ】

衣笠城合戦

1180年、源頼朝(みなもとのよりとも)が伊豆で挙兵します。
頼朝勢に合流しようとした三浦一族ですが、暴風雨により出陣が遅れ、石橋山合戦に間に合わず、頼朝の敗走を知り、衣笠城に引き返すことになります。

三浦一族が立てこもった衣笠城に平家方が攻めたのが衣笠城合戦です。『吾妻鏡』によれば、戦況に利あらずとみた三浦一族の棟梁、三浦大介義明(齢89)は、「老命を頼朝に投げうち、子孫の勲功に募らんと欲す」と諭し、義澄らを闇夜に乗じて城を脱出させ、自らは翌早朝に河越重頼らに討たれました。

義明は、自らが頼朝の捨石となる代わりに、源氏再興の暁には子孫が要職に就くことを暗に頼朝に願ったのです。
衣笠城を脱出した義澄らは、怒田城(現在の久里浜あたり)から安房(千葉県)へ向けて船を出し頼朝と合流します。この一か月後、頼朝は大軍を率い鎌倉入りを果たし、義明の願い通り三浦一族を重臣として重用していきます。

衣笠城趾古図(満昌寺)

衣笠城趾古図(満昌寺)

衣笠城址の碑

衣笠城址の碑

一谷合戦(いちのたにかっせん)と鵯越え(ひよどりこえ)の逆落とし

『平家物語』が、とりわけ目覚ましい活躍として書き立てているのが、佐原義連の一谷における鵯越えの逆落しです。

平氏が一谷城(現在の神戸市)に布陣していたとき、なかなか勝敗がつかず一進一退を繰り返す中、城北の搦手(からめて)に廻った源義経(みなもとのよしつね)は、軍勢に驚いて次々と一谷の搦手(からめて)へ落ちていく大鹿たちをみて馬を断崖から落としてみると、足を打ち折って転び落ちる馬もありましたが、うまく駆け下りる馬もありました。

「心得て行けば損じることはない」との義経の掛け声に皆次々と駆け下りたのですが、ここぞという所で、苔むした大磐石の釣瓶落としの絶壁となり、さすがの義経もたじろいだそのとき、佐原義連が進み出て、「このような所は我らの本拠三浦では、鳥ひとつ射るにも朝夕、馳せ廻っている馬場である」と言って真っ先に駆け下り、これにつられて、皆、えい、えいと声をあげ、一気に一谷城の背後になだれ込みました。不意を突かれた平氏はあわてふためき、先を争って須磨浦に助け船を求めたといいます。

この話が事実なら、義経の策である逆落としの奇襲を成功へと導いたのは佐原義連ということになります。他の人物だったという説もあるのですが、いずれにしても義連は『平家物語』の中に鵯越えを先駆けた騎馬の鍛錬者として紹介され、後世に名を残した武将なのです。

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【鎌倉幕府で大活躍】

三浦義澄の名誉

1192年7月、源頼朝の征夷大将軍への任命の文書(除書)を、勅使から受け取る役を命ぜられた三浦介義澄は、鎌倉八幡宮若宮にて、御家人らの羨望を集める中、膝行して文書を受け取り、これを乱箱(みだればこ)に入れ、腰をかがめ恭しく頼朝に奉りました。このときの様子を『吾妻鏡』は「千万人の中に、義澄、この役に応じ面目絶妙なり」と記しています。これにより義澄は、幕府の御家人筆頭の地位を諸国に広く知らしめたのです。

義澄が選ばれたのは頼朝挙兵の捨石となった父義明の功績に報いられたということもありますが、義澄は「8カ国に聞こえたりし弓矢とり」であり、沈着冷静な人物であったと思われ、大役に相応しい風格が備わっていたとも考えられます。

三浦一族の全盛期

義澄の跡をとった三浦義村は、相模、河内、紀伊、土佐の守護や侍所所司、評定衆を歴任し、娘(矢部禅尼)を執権北条義時の嫡子泰時に嫁がせ外戚にもなり、執権義時の亡き後は幕府の意向を左右する政治力を持つ存在となりました。

 この頃、三浦一族の国司・守護任国や所有する所領や地頭職にあった地域は、陸奥国(青森県、宮城県、福島県、岩手県)から肥前国(佐賀県、長崎県)、筑前・筑後国(福岡県)までと、全国に及び、その勢力の大きさが窺えます。

しかし義村は一族のなかで大きな勢力を持っていた従兄弟の和田義盛和田合戦で敵対し、和田一族は滅亡します。

和田合戦

和田塚

和田塚(鎌倉市)

1213年、鎌倉幕府で勢力を誇った和田義盛の一族が滅亡した戦です。将軍擁立にかかる企て(泉親平の乱)に関わり失敗、甥の胤長(たねなが)は首謀者として配流され、さらには一族に給わるはずの屋敷所領まで没収されました。義盛は、「屈辱を受けた」とする若衆に押される形で北条氏に向けて蜂起しました。

しかし、当時の三浦宗家の当主である義村らは時の執権北条義時に密告、これにより幕府謀反人とされた義盛らは滅亡しました。

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【三浦宗家 滅ぶ】

宝治合戦(ほうじかっせん)

伝 三浦氏やぐら

伝 三浦氏やぐら(鎌倉市)

義村や烏帽子親(えぼしおや)の北条泰時(やすとき)が亡くなるに及び、北条一門との絆が一つ一つ失われていく中で、執権の外戚として力を増してきた安達氏に戦いを仕掛けられます。時の執権北条時頼(ときより)も討伐を命じました。

1247年6月、館を出ることを余儀なくされた泰村は、頼朝の廟所(法華堂跡)に籠り、一族五百余名と共に自害します。自分の顔を刀で切り刻み悔しさをあらわにする弟光村とは対照的に、泰村はその血で頼朝の御影を汚してはならないとたしなめるほど落ち着いた様子だったと伝えられています。

この宝治合戦により、三浦宗家は滅びますが、庶流の佐原盛連の子らが、北条方について生き残り、五男の盛時が「三浦介」を継承します。この後、三浦氏は戦国時代の新井城へと続いていきます。

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【戦国期 三浦一族の血で油壺は…】

新井城合戦

三浦氏の嫡流が宝治合戦で滅んだ後、「三浦介」は、義明の末子である佐原義連の家系が受け継いでいきます。

戦国期には、その末裔三浦義同(道寸)が、相模国の中郡(現在の平塚市辺り)と三浦郡のほぼ全域を掌握していたとみられています。

1512年8月、相模国への進出を目指す伊豆の伊勢宗瑞(いせそうずい 後の北条早雲(そううん))に岡崎城(現在の平塚)で敗れた道寸は、逗子住吉城を弟に委ね、自らは三浦郡秋谷・長坂・林と南下し、多くの兵を失って最後の詰城新井城に立て籠ることになります。一方、早雲は同年10月には、三浦氏を滅ぼすための向い城として、三浦半島入口の玉縄要害(たまなわようがい)(鎌倉市)を構えました。新井城は、「巌険阻にして、獣も駆け登り難し」と称された天然の島城で、容易に落とせる城ではなく、早雲も兵糧攻めの長期戦を覚悟したといいます。

義同らは、丸三年の籠城を続けますが、『北條五代記』は、戦記物ゆえの誇張もあるでしょうが、義同・義意父子の最期の様子をこう伝えています。

「兵糧が底を尽くと、城主義同(よしあつ)は今生の別れの盃を交わし、義意(よしもと)は最期の舞を舞い終えると家伝の大太刀を持ち敵中に討ち入り、四方八方へ逃げる者を散々に振り廻した。一払いに50人。その有様は夜叉羅刹の如き。義同は従者と枕を並べ自害。義意は “身は朽ちても頸は死なず”と大音声を発し自ら頸を掻き斬った。その形相は牙をむき眼は逆さに裂け、鬼髪は針の如く立ち、眼光は百錬の鏡に血を注ぎたるが如し…」(要約) 

義意21歳、85人力、身の丈2mあまりの器量・骨柄ともに優れた人物であったといいます。義同の供養塔には「討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ、砕けて後は元の土塊(つちくれ)」という辞世の和歌が刻まれています。こうして三浦郡は早雲の領有に帰し、小田原城を本拠とする後北条氏による相模一国の支配が完成。三浦一族は三浦半島の盟主として再び滅びをみたのです。

義同らの自害は永正13年7月11日、くしくもこの74年後の同日、早雲の曾孫氏政(うじまさ)が豊臣秀吉により自害させられています。

供養塔

三浦道寸供養塔(三浦市)

油壺湾

油壷湾(三浦市)

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