更新日:2023年12月28日

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三浦半島に三浦一族を訪ねる【地域別マップ】

三浦一族にゆかりのある史跡は、三浦半島内に点在しています。各地域でのエピソードを含めて紹介します。

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(1)鎌倉(和田塚、伝三浦氏やぐらなど)

【鶴岡八幡宮】
鶴岡八幡宮は、頼朝の鎌倉入りに際して元八幡の地から現在の地に移され幕府の守護神となり、以後、幕府の儀式を行う場になりました。和歌管弦の御会、琵琶などの芸能、放生会や流鏑馬、相撲、舞楽などの祭事が行われ、武家社会の精神的、社会的中心だったのです。静御前の舞も行われ、このとき佐原義連が即興で舞台を設えています。

【法華堂跡と三浦一族のやぐら】
頼朝の墓所となった「法華堂」の堂宇は現存しませんが、跡地には源頼朝墓といわれる五層の石塔が建てられています。

宝治合戦で三浦一族はこの法華堂に籠り、源頼朝の御影の前で往時を語り、法華堂の傍らで自刃しました。

近くの鳥居を進むと三浦一族の墓といわれるやぐらがあります。(「やぐら」とは、鎌倉やその周辺に見られる、山肌や岩肌を切り抜くように造られた墓のこと)

【和田塚】
江ノ電「鎌倉駅」の次「和田塚駅」近くの「和田塚」は、「和田合戦」があった辺りといわれています。

【屋敷跡】
三浦宗家の鎌倉の宿館跡は、鶴岡八幡宮の東方、現在の横浜国立大学教育学部附属鎌倉小・中学校の地。和田義盛の館跡は、『吾妻鏡』によれば、若宮大路の西にあったといわれています。鎌倉幕府の重臣となった三浦一族は、鎌倉の中心に宿館を与えられました。

【来迎寺】
材木座にある時宗の寺。源頼朝が幕府創設の捨石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまりで、本尊の阿弥陀三尊は大介義明の守本尊であると伝えられています。境内には衣笠合戦で戦死した大介義明と孫多々良重春の墓碑があり、本堂裏の100基余りの五輪塔は三浦一族のものと伝えられています

 

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周辺地図(PNG:75KB) 源頼朝墓 鶴岡八幡宮
来迎寺    
来迎寺    

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(2)芦名(浄楽寺近辺)

浄楽寺のある芦名は、三浦大介義明の弟「芦名為清」の城館があった場所といわれています。そのため、このあたりには「ミタチ」(御館)の地名が残っています。明治期に城山の一部が切り崩されていて当時の形は残っていません。
十二所(じゅうにそ)神社は、『吾妻鏡』によると、源頼朝が、妻北条政子の安産を願うため御家人を代理参拝させた八社のひとつと書かれています。参拝したのは、佐原十郎義連です。境内には、「帯解(おびとけ)子安地蔵」が、近くには、縁結びや安産祈願の淡島神社があります。また、この辺りは、「子産石」がみつかる海岸で、国道134号線沿いのバス停「子産石」近くの民家の端には直径1m近いものが置かれています。

周辺地図 十二所神社
周辺地図 十二所神社

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(3)衣笠・大矢部(満昌寺・大善寺など)

バス停「衣笠城址」の辺りは、頼朝旗揚げ時の功労者、三浦大介義明の「衣笠城合戦」で知られる場所です。
三浦一族が活躍した中世の「城」衣笠城は、天守閣があるようなものではなく、いわゆる「山城」であり、戦の際に砦とするものでした。
「衣笠城址」へは、衣笠インターチェンジすぐそばにある「追手口」の碑から「馬返しの坂」という急坂を上ります。
途中、「不動の井戸」「大善寺」などを経て、さらに上ると開けた場所に出ます。その高いところに、「衣笠城址」の碑があります。そこには物見岩といわれる大きな岩があり、そこからは四方の様子がよく見え、要害の地であったことが感じられるでしょう。 
義明を祀る「満昌寺」の付近には、自然の岩壁を利用して彫った磨崖仏、三浦義村を祀る「近殿神社(ちかたじんじゃ)」や義澄の五輪塔が残る「薬王寺旧跡」、手綱を繋いで磨り減った跡が残る「駒繋石(こまつなぎいし)」、「三浦義明百六つ」の歌を刻んだ歌碑のある「腹切松(はらきりまつ)公園」が散策できます。

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周辺地図(JPG:212KB) 不動の井戸

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(4)油壺(新井城址近辺)

戦国期の「新井城」のあった辺りです。
三浦義同(道寸)は、ここで3年もの持久戦を耐え、最後は自害して、三浦一族は2度目の滅亡にあいます。
その血が海面に油のように浮いていた様子が「油壺」の由来との説もあります。
【引橋】(外の引橋)(内の引橋)
「引橋」という地名も残っています。「引き橋」とは、いざ合戦のときに引き外して敵の侵入を防ぐ働きをする橋のこと。
現在の国道134号線の交差点「引橋」付近は「外の引き橋」。「内の引き橋」は、バス停「油壺温泉」の少し先になる辺りで、北は小網代湾、南は油壺湾が迫り最も狭くなっています。

当時は掘られた空堀に橋がかけられていたといわれています。今も内側に土塁の跡が見られます。
【新井城址と供養塔】
「新井城址」は京急油壺温泉キャンプパークの南側、油壺湾に突き出たあたりにあります。現在、そのほとんどは「東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所」の中となっています。京急油壺温泉キャンプパークの北側の胴網海岸へ下る道の途中には、三浦義同の供養塔があり、自由に散策できます。

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周辺地図(JPG:211KB) 内の引き橋付近

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(5)三崎(海南神社・三御所など)

三浦半島の突端にある三崎は、風光明媚なところといわれ、源頼朝を始め鎌倉期の逸話が各所に残っています。

【海南神社】
頼朝挙兵のとき、三浦大介義明は源平の争覇を海南神社に占い、白と赤の狐を闘わせて白い狐が勝ったので、源氏方に加担したと神社縁起に伝えられています。
境内には「頼朝公手植」と伝えらえる大銀杏(樹齢約800年)があります。
また、にユネスコ無形文化遺産に指定されている「チャッキラコ」は、三崎の磯に遊んだ頼朝の所望により、里女の歌に合わせて、少女達が即興的に小竹を叩いて踊ったのがはじまりとの説があります。毎年1月15日に奉納されています。

【光念寺】
光念寺は和田義盛が開基した浄土宗のお寺です。寺建立のきっかけになった筌龍弁財天は、義盛等が安房へ逃れる際に海上で飢えから救ったという伝説があります。

【三崎の三御所】
頼朝も三崎を好み、よく来遊したそうです。そのゆかりから三崎には「三御所」と称されるところがあります。現在の「見桃寺(けんとうじ)」の地が桃の御所、「大椿寺(だいちんじ)」の地が椿の御所、「本瑞寺(ほんずいじ)」の地が桜の御所です。本瑞寺だけが、今も桜を愛でることができるようです。

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周辺地図(PNG:63KB) 海南神社 チャッキラコ

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