三浦半島に三浦一族を訪ねる【地域別マップ】

掲載日:2018年3月17日
地域別紹介用概略地図

(1)鎌倉(和田塚、伝三浦氏やぐらなど)

【鶴岡八幡宮】※世界文化遺産登録候補構成資産
鶴岡八幡宮は、頼朝の鎌倉入りに際して元八幡の地から現在の地に移して幕府の守護神とし、以後、幕府の儀式を行う場になりました。
三浦義澄は、朝廷の使者より征夷大将軍の除書(任命書)を受ける役を行い、また、佐原義連は、静御前の舞の舞台を即興で設えました。
【法華堂跡と三浦一族のやぐら】※法華堂跡は世界文化遺産登録候補構成資産
頼朝没後、その墓所となった「法華堂」は現存せず、跡地には源頼朝墓といわれる五層の石塔が見られます。
宝治合戦」で三浦泰村が一族と自刃したのは頼朝の墓のある法華堂です。近くの鳥居を進むと三浦一族の墓といわれるやぐらがあります。(「やぐら」とは、鎌倉やその周辺に見られる、山肌や岩肌を切り抜くように作られた墓のこと)
【和田塚】
江ノ電「鎌倉駅」の次「和田塚駅」近くの「和田塚」は、「和田合戦」があった辺りといわれています。
【屋敷跡】
三浦宗家の館跡は、鶴岡八幡宮の東方、現在の横浜国立大学附属鎌倉小・中学校の地。
和田義盛の館跡は、「吾妻鏡」によれば、若宮大路の西方にあったといわれます。鎌倉幕府の重臣となった一族は、鎌倉の中心にその館を構えていました。

周辺地図 源頼朝墓 鶴岡八幡宮
周辺地図 源頼朝墓 鶴岡八幡宮

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(2)芦名(浄楽寺近辺)

 浄楽寺のある芦名は、三浦大介義明の弟「芦名為清」の城館があった場所といわれています。そのためか、このあたりには「ミタチ」(御館)の地名が残っています。明治に城山の一部が切り崩されていて当時の形は残っていません。
  十二所神社は、「吾妻鏡」によると、源頼朝が、妻北条政子の安産を願うためご家人を代理参拝させた八社のひとつと書かれています。参拝したのは、佐原十郎義連とされています。
  境内には、「帯解(おびとけ)子安地蔵」が、近くには、縁結びや安産祈願の淡島神社があります。
また、この辺りは、「子産石」がみつかる海岸で、国道134号線沿いのバス停「子産石」近くの民家の端には直径1m近いものが置かれています。

周辺地図 十二所神社
周辺地図 十二所神社

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(3)衣笠(満昌寺・清雲寺近辺)

バス停「衣笠城趾」の辺りは、頼朝旗揚げ時の功労者、三浦大介義明の「衣笠城合戦」で知られる場所です。
三浦一族が活躍した中世の「城」衣笠城は、天守閣があるようなものではなく、いわゆる「山城」であり、戦の際に砦とするものでした。
「衣笠城趾」へは、横須賀インターチェンジすぐそばにある「追手口」の碑から「馬返しの坂」という急坂を上ります。
途中、「不動の井戸」「大善寺」などを経てさらに上ると開けた場所に出ます。中でも高いあたりに、「衣笠城址」の碑があります。この物見岩と思われるところから眺めて見ると、四方の様子がよく見え、要害の地であったことが感じられるでしょう。 
義明を祀る「満昌寺」の付近には、自然の岩壁を利用して彫った磨崖仏、三浦義村を祀る「近殿神社(ちかたじんじゃ)」や義澄の五輪塔が残る「薬王寺跡」、手綱をつないだところに磨り減った跡の見える「駒繋石(こまつなぎいし)」、「三浦義明百六つ」の歌を刻んだ歌碑のある「腹切松(はらきりまつ)公園」が散策できます。

周辺地図 不動の井戸
周辺地図 不動の井戸

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(4)三崎(海南神社・三御所など)

三浦半島の突端にある三崎は、鎌倉期にも風光明媚なところと思われ、源頼朝を始め鎌倉期の逸話が各所に残っています。
【海南神社】
頼朝挙兵のとき、三浦大介義明は源平の争覇を海南神社に占い、白と赤の狐を闘わせて白い狐が勝ったので、源氏方に荷担したと神社縁起に伝えられています。
境内には「頼朝公手植」と伝えらえる大銀杏(樹齢約八百年)があります。
また、2009年(平成11年)にユネスコ無形文化遺産に指定された「チャッキラコ」は、三崎の磯に遊んだ頼朝の所望により、里女の歌に合わせて、少女達が即興的に小竹を叩いて踊ったのがはじまりとの説もあります。この「チャッキラコ」は、毎年正月15日に奉納されますが、普段は三崎下町の「チャッキラコ・三崎昭和館」でその映像を見ることができます。
【三崎の三御所】
頼朝も三崎を好み、よく来遊したそうです。そのゆかりから三崎には「三御所」と称されるところがあります。現在の「見桃寺(けんとうじ)」の地が桃の御所、「大椿寺(だいちんじ)」の地が椿の御所、「本瑞寺(ほんずいじ)」の地が桜の御所です。本瑞寺だけが、今も桜を愛でることが出来るようです。

周辺地図 海南神社 チャッキラコ
周辺地図 海南神社 チャッキラコ

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(5)油壺(新井城址近辺)

戦国期の「新井城合戦」のあった辺りです。
三浦義同(道寸)は、ここで3年もの持久戦を耐え、最後は自害して、三浦一族は2度目の滅亡にあいます。
その血が海面に油のように浮いていた様子が「油壺」の由来との説もあります。
【引橋】
「引橋」という地名も残っています。「引き橋」とは、いざ合戦のときに引き外して敵の侵入を防ぐ働きをする橋のこと。
現在の国道134号線の交差点「引橋」付近は「外の引き橋」。「内の引き橋」といわれるのは、バス停「油壺」の少し先になる辺りで、北は小網代湾、南は油壺湾が迫り最も狭くなっています。当時は掘られた上に橋がかけられていたといわれています。今も内側に土塁の跡が見られます。
【新井城址と供養塔】
「新井城址」は油壺マリンパークの南側、油壺湾に突き出たあたりにあります。現在、そのほとんどは「東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所」の中となっています。
油壺マリンパークの北側の胴網海岸へ下る道の途中には、三浦義同の供養塔があり、自由に散策できます。

周辺地図 内の引き橋付近
周辺地図 内の引き橋付近

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