更新日:2022年9月20日

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三浦一族のエピソード

鎌倉幕府創建に大きな役割を果たした三浦一族の興亡を知ることができます。

インデックス

鎌倉幕府成立のころ

衣笠城合戦

1180年、源頼朝(みなもとのよりとも)が伊豆で挙兵します。

三浦一族は、頼朝勢に合流しようと衣笠城を出陣しましたが、暴風雨により出陣が遅れ石橋山合戦に間に合わず、頼朝の敗走を知り、衣笠城に引き返すことになります。

このとき平家方が攻めたのが衣笠城合戦です。『吾妻鏡』によれば、戦況に利あらずとみた三浦一族の惣領、三浦大介義明(齢89)は、「老命を頼朝に投げうち、子孫の勲功に募らんと欲す」と諭し、義澄らを闇夜に乗じて城から脱出させ、自らは翌早朝に河越重頼らに討たれました。

義明は、自らが頼朝の捨石となる代わりに、源氏再興の暁には子孫が要職に就くことを暗に頼朝に願ったのです。

衣笠城を脱出した義澄らは、怒田(ぬた)城(現在の久里浜あたり)から安房(千葉県)へ向けて船を出し頼朝と合流します。この1か月後、頼朝は大軍を率い鎌倉入りを果たし、義明の願い通り三浦一族を重臣として重用していきます。

衣笠城趾古図(満昌寺)

衣笠城址の碑

一谷合戦(いちのたにかっせん)と鵯越え(ひよどりこえ)の逆落とし

『平家物語』がとりわけ目覚ましい活躍として書き立てているのが、佐原義連の一谷における鵯越えの逆落しです。

平氏が一谷城(現在の神戸市)に布陣していたとき、なかなか勝敗がつかず一進一退を繰り返す中、城北の搦手(からめて)に廻った源義経(みなもとのよしつね)は、軍勢に驚いて次々と一谷の搦手(からめて)へ落ちていく大鹿たちをみて馬を断崖から落としてみると、足を打ち折って転び落ちる馬もありましたが、うまく駆け下りる馬もありました。「心得て行けば損じることはない」との義経の掛け声に皆次々と駆け下ったのですが、ここぞという所で、苔むした大磐石の釣瓶落としの絶壁となり、さすがの義経もたじろいだそのとき、佐原義連が進み出て、「このような所は我らの本拠三浦では、鳥ひとつ射るにも朝夕、馳せ廻っている馬場である」と言って真っ先に駆け下り、これにつられて、皆、えい、えいと声をあげ、一気に一谷城の背後になだれ込みました。不意を突かれた平氏はあわてふためき、先を争って須磨浦に助け船を求めたと伝えられています。

この話が事実なら、義経の策である逆落としの奇襲を成功へと導いたのは佐原義連ということになります。他の人物だったという説もあるのですが、いずれにしても義連は『平家物語』の中に鵯越えを先駆けた騎馬の鍛錬者として紹介され、後世に名を残した武将なのです。

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鎌倉幕府で大活躍

三浦義澄の名誉

1192年7月、源頼朝の征夷大将軍への任命の文書(除書)を、勅使から受け取る役を命ぜられた三浦介義澄は、鎌倉八幡宮若宮にて、御家人らの羨望を集める中、膝行して文書を受け取り、これを乱箱(みだればこ)に入れ、腰をかがめ恭しく(うやうやしく)頼朝に奉りました。このときの様子を『吾妻鏡』は「千万人の中に、義澄、この役に応じ面目絶妙なり」と記しています。これにより義澄は、幕府の御家人筆頭の地位を諸国に広く知らしめたのです。

義澄が選ばれたのは頼朝挙兵の捨石となった父義明の功績に報いられたということもありますが、義澄は「8か国に聞こえたりし弓矢とり」であり、沈着冷静な人物であったと思われ、大役に相応しい風格が備わっていたとも考えられます。

三浦一族の全盛期

義澄の跡を継いだ義村は、相模、河内、紀伊、土佐の守護や御厩別当(みまやべっとう)、評定衆を歴任し、娘(矢部禅尼)を執権北条義時の嫡子泰時に嫁がせ外戚となり、執権義時の亡き後は幕府を左右する政治力を持つ存在となりました。

この頃、三浦一族の国司・守護や地頭職にあった地域は、北は陸奥国(青森県、宮城県、福島県、岩手県)から南は肥前国(佐賀県、長崎県)、大隈国(鹿児島県東部)、筑前・筑後国(福岡県)と、全国に及び、その勢力の大きさが窺えます。

しかし義村は、一族の中で大きな勢力を持っていた従兄弟の和田義盛和田合戦で敵対し、和田一族は滅亡します。

和田合戦

和田塚

和田塚(鎌倉市)

1213年、鎌倉幕府で勢力を誇った和田義盛の一族が滅亡した戦です。将軍実朝と執権義時を廃し、故将軍頼家の遺子栄実の擁立にかかる企て(泉親平(いずみちかひら)の乱)に関わり失敗した甥の胤長(たねなが)が首謀者として配流され(後に処刑)、さらには一族に給わるはずの胤長の屋敷まで没収されました。義盛は、「屈辱を受けた」とする若衆に押される形で北条氏に向けて蜂起しました。

しかし、義村は、義盛に味方するという起請文を書きながら変心し、義時に義盛の挙兵を伝えます。これにより謀反人とされた義盛らは滅亡しました。

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三浦氏宗家 滅ぶ

宝治合戦(ほうじかっせん)

伝 三浦氏やぐら

伝 三浦氏やぐら(鎌倉市)

関白九条道家は、三浦義村の奏上により、2歳の時に鎌倉殿として下向した子頼経を養育した三浦氏を執権にしようと画策しましたが、これが露顕して道家は失脚し、三浦氏は後ろ盾を失いました。三浦氏を疎ましく思っていた執権北条氏の外戚安達氏は、三浦氏滅亡に追い込む千載一遇の好機とみて、戦いを仕掛けました。

1247年6月、自邸に火をかけられた泰村は、頼朝の廟所(法華堂)に籠り、一族五百余名と共に自害します。自らの顔を刀で削り悔しさをあらわにした光村とは対照的に、兄泰村はその血で頼朝の御影を汚してはならない、とたしなめたと伝えられています。 

この宝治合戦により、三浦氏宗家は滅びますが、庶流の佐原義連の子らが、北条方について生き残り、五男の盛時が「三浦介」を継承します。この後、三浦氏は新井城を築き戦国時代へと続いていきます。

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戦国期 三浦一族の血で油壺は…

新井城合戦

三浦氏宗家が宝治合戦で滅んだ後、「三浦介」は、義明の末子である佐原義連の孫盛時の家系が受け継いでいきます。

戦国期には、その末裔三浦義同(道寸)(みうらよしあつ(どうすん))が、相模国の中郡(現在の平塚市辺り)と三浦郡のほぼ全域を掌握していたとみられています。

1512年8月、相模国への進出を目指す伊豆の伊勢宗瑞(いせそうずい)(後の北条早雲(そううん))に岡崎城(現在の平塚市)で敗れた道寸は、逗子住吉城を弟に委ね、自らは三浦郡秋谷・長坂・林と南下し、多くの兵を失って最後の詰城新井城に立て籠もることになります。一方、早雲は同年10月には、三浦氏を滅ぼすための向い城として、三浦半島入口に玉縄要害(たまなわようがい)(鎌倉市)を構えました。新井城は、「巌険阻にして、獣も駆け登り難し」と称された天然の島城で、容易に落とせる城ではなく、早雲も兵糧攻めの長期戦を覚悟したといいます。

義同らは、丸3年の籠城を続けますが、『北條五代記』には、戦記物ゆえの誇張もあるでしょうが、義同・義意(よしおき)父子の最期の様子をこう伝えています。

「兵糧が底を尽くと、城主義同(よしあつ)は今生の別れの盃を交わし、義意(よしおき)は最期の舞を舞い終えると家伝の大太刀を持ち敵中に討ち入り、四方八方へ逃げる者を散々に振り廻した。一払いに50人。その有様は夜叉羅刹の如き。義同は従者と枕を並べ自害。義意は “身は朽ちても頸は死なず”と大音声を発し自ら頸を掻き斬った。その形相は牙をむき眼は逆さに裂け、鬼髪は針の如く立ち、眼光は百錬の鏡に血を注ぎたるが如し…」 

義意21歳、85人力、身の丈2mあまりの器量・骨柄ともに優れた人物であったといいます。義同の供養塔には「討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ、砕けて後は元の土塊(つちくれ)」という辞世の和歌が刻まれています。こうして三浦郡は早雲の領有に帰し、小田原城を本拠とする後北条氏による相模一国の支配が完成し、三浦半島の盟主・三浦一族は滅びたのです。

義同らの自害は永正13年(1516年)7月11日、奇しくも、この74年後の同日、早雲の曾孫氏政(うじまさ)が豊臣秀吉により自害させられています。

供養塔

三浦道寸供養塔(三浦市)

油壺湾

油壷湾(三浦市)

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