更新日:2023年7月20日

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三増合戦場跡

武田軍と北条軍が激戦を繰り広げた「三増合戦場」として有名。その石碑は400年後の1969年に建立されました。

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三増合戦場_タイトル

三増合戦場_イメージ

武田軍と北条軍が激戦を繰り広げた「三増峠の戦い」の合戦場として有名。
その石碑は、400年後の1969年(昭和44年)に建立されました。


合戦場跡で、戦国時代に思いをはせてみてはいかがでしょうか?

 

青い点線
【住所】愛川町三増1182-3付近
【TEL】
愛川町スポーツ・文化振興課
スポーツ・文化振興班
046-285-6958

青い点線

三増合戦場_地図

 

武田信玄と北条氏康の激戦の地へ

圏央道相模原ICから津久井広域道路を通り、県道65号(厚木愛川津久井線)から町道を経て約15分、少し開けたところに出ます。

三増合戦場のモニュメント

右手に見えてくるのが「三増合戦場」の石碑です。

石碑の背面

休憩場所
石碑の横にある休憩場所

本当にのどかな風景からは想像もできないのですが、1569年(永禄12年)、この地にて武田信玄率いる武田軍と北条氏康率いる北条軍が激突したのです。

三増峠の激戦

陣地配置図

なぜ、この地が合戦の地となったのか?
1569年10月1日。武田信玄は2万の軍勢を率いて北条氏の小田原城を包囲しました。しかし、難攻不落の小田原城は落とせず、4日後の10月4日に小田原城下に火を放ち引き上げたのです。
小田原城攻めを諦めた武田軍は、平塚の地で方向を変え、甲斐国へと向かいます。
甲斐国に帰ろうとした武田軍をここ三増で待ち受けていたのが、甲州街道守備軍の北条氏照、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢2万だったのです。

帰路の信玄、自軍を3つに分け戦況を一変させる

穏やかな風景

さすがに「甲斐の虎」と言われた信玄。既に北条の軍が途中の三増の地で陣を張っていることを察知すると、自軍を3つに分けて進軍させます。
先に志田峠(三増峠南西約1kmにある)を越えようとしていた山県昌景率いる武田の別働隊が、より高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾くこととなるのです。
重臣である浅利信種らを失いつつも、武田軍は北条軍を退けて甲斐国へ帰還を果たします。

この戦いは、戦国時代最大の山岳戦として有名。

三増合戦における戦死者は、北条方約3300人。武田方約900人。関ヶ原の戦いにおける戦死者数が3000から8000名とされているので、両陣営合わせた数が4000名を超えるということは、この合戦がいかに激しいものであったのか知ることができます。

戦いの史跡は他にも

旗立ての松

【信玄の旗立ての松】
三増合戦の際、武田信玄が大将旗を立てたと言い伝えのある旗立て松。
今は、松は枯れてしまってなく、その後に石碑が建てられている。
(現在、東名厚木カントリークラブ・ゴルフ場の中にあります)

浅利氏の首塚

【浅利信種墓所】

武田信玄の重臣であった浅利重種を祀った「浅利明神」がある。

首塚

志田道と町道との分岐点の丘の上にある首塚は、不動堂とも呼ばれています。

三増合戦場・史跡簡易マップ

三増合戦場マップ

【三増合戦場碑】住所:神奈川県愛甲郡愛川町三増1182-3


神奈川県県央地域には様々な史跡がありますが、この「三増合戦場跡」もその一つ。この愛川町という地で、歴史上有名な武田信玄と北条氏康が戦ったということ。また、間接的に上杉謙信の存在も影響していたこと。
歴史好きな方にはたまらない地域だと思います。

こちらへドライブ等でお越しの際、ぜひお立ち寄りいただき、「戦国の世」を思い描いていただきたいと思います。

 

 

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