ホーム > 健康・福祉・子育て > 福祉 > 戦没者遺族・戦傷病者援護 > 「追悼」「継承」ポータルサイト~戦没者・戦災死者を追悼し、平和の尊さを次世代に継承していくために~ > 県内の戦争関連史跡・建造物
初期公開日:2025年3月27日更新日:2025年4月15日
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戦争の記憶継承のため、県内に所在する戦争関連の史跡・建造物の情報を整理しました。
名称 | 所在地 | 概要 |
横浜市慰霊塔 | 神奈川区三ツ沢西町3-1 三ツ沢公園内 |
戦争犠牲者等の霊を永世安置するために、横浜市が市民の協力を得て建立したもの。 |
名称 | 所在地 | 概要 |
相模原市慰霊塔(別ウィンドウで開きます) | 南区東大沼1-17-1 | 昭和18年8月に建立され、昭和24年5月に国から相模原市 に譲渡されたもの。 |
大沢平和記念碑 | 緑区大島1778-3 | 昭和41年5月に建立されたもの。 |
三角山公園・平和の碑 | 中央区田名4833-1 | 昭和9年10月に建立されたもの。 |
新磯表忠碑 | 南区磯部1937-1 |
昭和29年に建立されたもの。 |
橋本表忠碑 | 緑区橋本2-337-2 | 昭和30年11月に建立されたもの。 |
名称 | 所在地 | 概要 |
浦郷官修墓地 | 浦郷3-60 | 西南の役に出征し、帰還の船中でコレラにより戦病死した警視庁の職員52柱が埋葬されている。毎年5月第2土曜日午前11時より慰霊祭開催。 令和6年警視庁警視総監より、墓地管理を行っている地元町内会へ感謝状 贈呈あり。 |
追浜戦没者慰霊碑 | 追浜本町1-11 雷神社境内 | 先の大戦に追浜より出兵し亡くなられた英霊の慰霊のため、昭和35年雷 神社境内に「戦没者慰霊碑」を、浦郷支所管内戦没者慰霊碑建設委員会が 建立、題字は野村吉三郎書(刻銘碑文)。毎年10月第2金曜日午前11時より追浜連合町内会とご遺族で拝礼開催。 |
海軍工作学校跡 | 久里浜6-11 |
太平洋戦争で尊い命を捧げた海軍工作学校卒業生の冥福を祈り、業績を称えるため、建てられた碑。毎年5月22日、この碑の前で、慰霊祭が行われている。 |
千代ヶ崎砲台跡 | 西浦賀6-5-1 |
国史跡。国が所有、横須賀市が管理している。 1892年(明治25年)から1895年(明治28年)にかけて、旧日本陸軍によって久里浜湾の北側の高台に建設された、東京湾を防衛するために構成された砲台の一つ。 |
猿島砲台跡 | 猿島1 猿島公園内 |
国史跡。横須賀市が所有、管理している。 幕末に江戸湾防備のため台場(砲台)を築造。その後も東京湾要塞の要衝として砲台が整備され、昭和期には軍港防衛のための防空砲台の役割を担った。島内各所に当時の遺構が現存し、平成27年に近代軍事施設として初めて国指定となった。 |
観音崎砲台群 | 鴨居4-1262 観音崎公園内 |
県が所有、管理している。 |
走水低砲台跡 | 走水2-698 旗山崎公園内 |
横須賀市が所有、管理している。 明治期、東京湾防備の最重要地点であった走水の地に建造された低砲台基地跡で当時のほとんどの遺構が現存している。ガイドツアーで見学可。 |
東京湾第三海堡構造物 |
夏島町2-26 夏島都 市緑地内 平成町3-23 うみか ぜ公園内 |
県重要文化財。横須賀市が所有、管理している。 東京を防衛するため、東京湾口の猿島と観音崎の中間に明治期から約30年かけて建設され、大正10年(1921年)に完成した海上要塞。しかし、2年後の関東大地震で倒壊しほとんどが水没。東京湾の航路の安全確保のため平成12年から撤去工事が始まり、当該兵舎はその際に引き上げられたもの。 |
旧横須賀重砲兵連隊営門 | 坂本町1-11 桜小学校、坂本中学校の門 | 横須賀市が所有、管理している。 |
旧横須賀鎮守府庁舎 | 稲岡町 米海軍基地内 | 財務省が所有、米海軍が使用。特別公開日に見学可。 |
旧横須賀海軍工廠庁舎 | 楠ヶ浦町 米海軍基地内 | 財務省が所有、米海軍が使用。特別公開日に見学可。 |
記念館三笠 | 稲岡町82 三笠公園内 |
海上自衛隊が所有、保存会が管理している。 世界三大記念艦の一つである日露戦争当時の旗艦「三笠」が展示保存されている。三笠の管理運営は(公財)三笠保存会による。 |
貝山地下壕 | 浦郷町5 貝山緑地内 |
横須賀市が所有、管理している。特別公開日に見学可。 予科練誕生之地碑・海軍航空発祥之地碑 貝山地下壕 その他局地戦闘機「秋水(しゅうすい)」用の燃料貯蔵タンク 貝山緑地のある追浜には海軍航空隊と海軍航空技術廠があり、太平洋戦争末期には緑地地下に海軍施設の避難・防衛のため、延長約2キロに及ぶ大規 模な地下壕が開削された。現在は安全対策の整備を行った壕内の一部でガイド付きツアーを実施している。緑地内には海軍航空隊ゆかりの地として、「海軍航空発祥之地」碑、「予科練誕生之地」碑、「予科練鎮魂の碑」が建立されている。 |
旧横須賀造船所第一号~第三号船渠 | 楠ヶ浦町 米海軍基地内 | 財務省が所有、米海軍が使用。特別公開日に見学可。 |
平和中央公園 | 深田台19-1 |
横須賀市が所有、管理している。 東京湾要塞の演習砲台跡地を整備し作られたこの公園には、戦没者慰霊碑と平和モニュメントが設けられており、令和3年度に「平和中央公園」として再整備した。老朽化していた平和モニュメントは、「平和の軸(THE AXIS OF PEACE)」としてリニューアルした。この新モニュメントは、毎月1日と平和に関する記念日の夜間、上空に光を照射し、人々が平和に想いを馳せる機会としている。園内では米ヶ濱砲台跡も公開されている。 |
ヴェルニー公園 | 汐入町1-1-1 |
横須賀市が所有、管理している。 旧横須賀軍港に位置するこの公園は、横須賀製鉄所の建設に尽力したフランス人技師の名を冠し、園内には製鉄所の歴史と功績を紹介するヴェルニー記念館や、製鉄所の副首長であったティボディエの官舎の一部を想定 復元したティボディエ邸がある。また、旧軍港の衛生詰所である逸見波止場衛門が現存し、横須賀海軍工廠で建造された戦艦「陸奥」の主砲が移設されているほか、海軍の碑、軍艦長門碑、軍艦沖島碑、軍艦山城碑、国威顕彰碑がある。 |
馬門山海軍基地 | 根岸町1-5-27 |
明治15年(1882年)に海軍省により、戦士もしくは殉職した軍人のために設けられた。戦後、横須賀市に移管。一部は一般墓地として利用されている。毎年5月には地域団体等による墓前祭が行われている。(現在市民墓地の新規募集の予定はありません。) |
※市ホームページ「国史跡東京湾要塞跡」(別ウィンドウで開きます)
※市ホームページ「日本遺産認定横須賀市の構成文化財一覧」(別ウィンドウで開きます)
名称 | 所在地 | 概要 |
平塚市平和慰霊塔(別ウィンドウで開きます) | 浅間町1-1(八幡山公園内) |
平塚市平和慰霊塔は戦争犠牲者の慰霊と平和への願いをあらわす塔として、昭和40年12月に建立されました。高さ約22mのコンクリートによる井桁積み構造となっており、 頂上部には「平和の炎」が設置され、地下の奉安室には明治 以来の戦争犠牲者の霊名簿が納められ、長く市民に親しまれています。 |
平塚戦災復興事業完成記念碑 | 浅間町1-1(八幡山公園内) | 平塚市が空襲により戦災都市に指定され、1946年9月から着手された戦災復興に向けた土地区画整理事業が、1967年に完了したことを記念して建立された。 |
海軍火薬廠の跡碑 | 追分2-2(横浜ゴム平塚 製造所正門付近) | 1905年に日本火薬製造株式会社として始まった海軍火薬廠の 由来を記した石碑。1974年に海軍火薬廠跡の碑建立の会により建立。 |
海軍技術研究所化学研究部・ 相模海軍工廠化学実験部跡碑 | 西八幡1-3-2(平塚市交 通安全協会前) | 海軍技術研究所化学研究部とその後身の相模海軍工廠化学実 験部の由来を記し、瀬下平和を祈念して1994年に相廠記念碑 建立委員会により建立。 |
第二海軍火薬廠の塀 | 新町6-41(高橋工業所) | 第二海軍火薬廠の塀が高橋工業所の道路に面した塀として残されている。 |
第二海軍火薬廠の塀 | 四之宮1-7-7(シーカ・ ジャパン株式会社中原工場) | 第二海軍火薬廠の塀がシーカ・ジャパン株式会社中原工場の 東側の道路に面した塀として残されている。 |
第二海軍火薬廠の塀 | 西八幡1-4-9・平塚市西 八幡1-5-1(湘南リンテック加 工(株)・高栄産業(株)) | 第二海軍火薬廠の塀が湘南リンテック加工(株)・高栄産業(株)の道路に面した塀として残されている。 |
第二海軍火薬廠第二工場 | 浅間町12-8(富士チタ ン工業(株)) | 第二海軍火薬廠第二工場の建物が現在でも富士チタン工業(株) の建物として使用され、道路から眺めることができる。 |
第二海軍火薬廠寄宿舎群正門 門柱 | 大原2-1(県立平塚ろう 学校 | 第二海軍火薬廠寄宿舎群正門の門柱が県立平塚ろう学校の県 道61号線に面した塀の柱として残されている。 |
湘南平の高角砲台座跡 | 万田790-6(高麗山公園 (湘南平内)) | 現湘南平に1941年ころに海軍が設置した千畳敷山防空砲台の 高角砲のコンクリートの台座跡が、湘南平北側の展望台に重 なる形で残されている。 |
名称 | 所在地 | 概要 |
厚木地区忠魂碑 | 厚木町3-8(厚木神社境内) | 戦没者を追悼するための慰霊施設 |
依知地区忠霊塔 | 関口830-1(旧依知公民館敷地内) | 戦没者を追悼するための慰霊施設 |
睦合地区忠霊塔 | 三田635(清源院敷地内) | 戦没者を追悼するための慰霊施設 |
荻野地区忠霊塔 | 上荻野1(荻野神社内) | 戦没者を追悼するための慰霊施設 |
小鮎地区忠霊塔 | 飯山3533-1(郵便局前通り、小鮎小学校横) | 戦没者を追悼するための慰霊施設 |
玉川地区忠霊塔 | 七沢145(玉川公民館前バス停そば) | 戦没者を追悼するための慰霊施設 |
南毛利地区忠魂碑 | 長谷1080(南毛利小学校裏) | 戦没者を追悼するための慰霊施設 |
相川地区忠魂碑 | 酒井1983-1(相川中学校隣) | 戦没者を追悼するための慰霊施設 |
厚木市戦没者慰霊堂 | 飯山5464-1(飯山観音長谷寺内) | 戦没者を追悼するための慰霊施設 |
名称 | 所在地 | 概要 |
小田原市戦没者慰霊塔 | 小田原市城山三丁目30番1号 (城山公園内) | 明治以降の全戦没者・太平洋戦争の戦争犠牲者2,858柱 を祀る。昭和32年10月29日に建設。 |
上原重雄陸軍中佐の慰霊碑 | 沼代506付近 | 1945年2月17日に市内沼代上空で米軍との空中戦により戦死した上原重雄中佐の慰霊碑。搭乗機のプロペラが立てられている。 |
菅原神社の忠魂碑 | 国府津1752 | 1907年に当時の国府津村有志により建立。碑文の揮毫は乃木希典陸軍大将。 |
法輪寺の「祈の森」の碑 | 曽我谷津400 | 戦後、国府津に駐留していた鳥取歩兵第200連隊と、法輪寺に学童疎開した横浜市山本小学校の学童によって建立された石碑。戦時下の交流を今に伝える。 |
ユアサの空襲慰霊碑 | 成田721 | 1945年8月13日の小田原空襲で犠牲になった工員ら13名の慰霊碑。以前は扇町にあったものを、工場の移転に伴い成田に移した。工場内のため見学には許可が必要。 |
立川航空兵殉職記念碑 | 小台350 | 1932年7月23日、当地での飛行訓練中に殉職した立川第5連隊の航空兵の慰霊碑。小台地区の住民によって建てられた。 |
多古の身代わり地蔵尊 | 扇町5-8-31 | 1945年8月13日の小田原空襲で、防空壕内で生き埋めになり亡くなった13名の冥福を祈り、1969年に建てられたもの。 |
間中喜雄の平和碑 | 久野1565 | 軍医として召集された経験を持つ間中喜雄氏が建てたもの。 氏は敗戦を宮古島で迎え、戦後10か月間を捕虜収容所で過ごした。戦後に戦争の愚かさを綴った碑を建てたもの。 |
神山神社の魚雷と戦争碑 | 久野235 | 魚雷は1927年に海軍から「神社備え付け用記念品」として下げ渡されたもの。戦争碑は日清戦争、日露戦争、アジア太平洋戦争の戦没者のために建立された。 |
青橋の機銃掃射弾痕 | 寿町4-5-1 | 「青橋」は小田原駅西側にかかっていた跨線橋。米軍による機銃掃射を受けた際の弾痕が遺る。青橋の改修工事を請け 負った地元業者が引き取り、社内に設置している。 |
新玉小空襲の爆弾投下跡 | 浜町2-1-51 | 新玉小学校に隣接する蓮上院の土塁は後北条氏が築いたもの で国指定史跡となっている。そのため爆撃によって生じた穴 は埋められることなく、空襲の痕跡が今に伝わっている。 |
郷土文化館の戦争資料(別ウィンドウで開きます) | 城内7-8 | 小田原市郷土文化館には戦時下の暮らしを展示するコーナー がある。金属類の不足から竹や籐で作られた「竹かぶと」が 目を引く。 |
瓜生外吉海軍大将の胸像 | 南町1-5-37 | 瓜生外吉は日露戦争の日本海海戦に参戦した軍人で、南町に別邸を構えた。別邸近くの山角天神社に胸像が遺る。 |
大久保神社の砲弾 | 城山3-27-2 | 城山の大久保神社には日露戦争の「戦利兵器」として砲弾が遺されている。戦利品を神社に奉納することで、国の隆盛を祈ったもの。 |
小田原市慰霊塔 | 城山3-30 | 1957年に竣工された、明治以降の戦争で亡くなった市内2858 名の慰霊のために建てられた慰霊塔。現在も遺族会により、清掃奉仕と読経供養が行われている。 |
松永記念館の本土決戦陣地跡(別ウィンドウで開きます) | 板橋941-1 | 1945年4月から足柄平野に駐留した第84師団が、本土決戦に備 えて構築した地下式陣地とみられる遺構。安全上、陣地跡の見学は不可。 |
傷痍軍人箱根療養所 | 風祭412 | 国立病院機構箱根病院の前身は、1936年に東京巣鴨から移設 された傷兵院。病院内には移設当時に建てられた本館や、天皇・皇后の御真影を収めた奉安殿が遺る。 |
根府川駅舎の機銃掃射弾痕と句碑 | 根府川92 | 戦争末期に米軍機から受けた機銃掃射の弾痕がJR根府川駅の 上りホームの屋根の柱に遺されている。駅近くの公民館にはかつて高射砲があった。句碑はそのことを今に伝えるもの。 |
小田原空襲説明板 | 本町3-5-27 | 高齢者専用マンションの入り口に設置されている敗戦の日 (1945年8月15日)の小田原空襲についての説明板。マンションの二階には空襲被災資料等を展示した資料館がある。 |
※参考URL
小田原市デジタルアーカイブ「小田原写真館」(別ウィンドウで開きます)
小田原市 戦争体験者証言(YouTube_小田原市公式チャンネル)(別ウィンドウで開きます)
戦争のない平和な社会を次の世代へ~小田原にも空襲があっ た~(YouTube_小田原市公式チャンネル(別ウィンドウで開きます)
名称 | 所在地 | 概要 |
旧南湖院第一病舎 | 茅ヶ崎市南湖七丁目12869番地 |
明治32年に高田畊安によって開設されたサナトリウム(結核 療養所)で、「東洋一のサナトリウム」と謳われていた。昭和20年に海軍により接収され、兵舎などとして利用された。また、昭和21年に米軍により接収された。現在は、国の登録有形文化財に指定されており、外観のみ南湖院記念太陽の郷庭園内で公開されている。 |
平和の礎(別ウィンドウで開きます) | 茅ヶ崎市中海岸3-11483-59 (茅ヶ崎公園内) | 茅ヶ崎公園の「平和の広場」にある慰霊碑。 かつての「平和慰霊塔」(昭和42年建設)を、平成20年3月に建替えたもの。 |
※参考URL
烏帽子岩(別ウィンドウで開きます) (米軍接収後、砲撃演習の標的となり、先端を吹き飛ばされ、形が変わってしまった。)
茅ヶ崎市史刊行物 (別ウィンドウで開きます)(本市における戦争の歴史を学ぶことができるものもある。)
名称 | 所在地 | 概要 |
要塞の石柱(別ウィンドウで開きます) | 鎌倉市山ノ内 | 国防のために築造された建造物があった場所を示す石柱。 |
銃座跡(別ウィンドウで開きます) | 鎌倉市山ノ内 | 敵を射撃したり監視したりするために、防壁・装甲板などにあけた穴。 |
名称 | 所在地 | 概要 |
高角砲台跡 | 新宿5-4-1 (披露山公園内) | 披露山公園にある猿舎と円形花壇は、第2次世界大戦時の高角砲台跡を利用している。 |
忠魂碑 | 市桜山8丁目 (逗子配水池) | 日清、日露戦争戦没者の忠魂碑(忠魂塔)で、明治39年に建 立された。当初別の場所に建てられたが、震災により崩壊したため、昭和10年に現在地に移された。海軍1柱、陸軍16 柱が合祀されている。 |
平和の祈り(慰霊碑) | 桜山8-2274-1 (蘆花公園内) | 逗子市蘆花公園内に戦後60周年にあたる平成17年に逗子市遺族会によって、恒久平和と慰霊を願い建立された。 |
名称 | 所在地 | 概要 |
平和の誓い等碑群 | 入谷西二丁目46番1 号鈴鹿明神社内 | 平和の誓い、忠魂碑、従軍記念碑、明治丗七八年戦役記念碑を鈴鹿明神社境内に設置(市遺族会、各建設委員会等が建立、現在は同神社が管理)している。 |
芹沢公園地下壕(別ウィンドウで開きます) | 芹沢公園内 | 太平洋戦争末期の激しさを増す空襲を避けて、高座海軍工廠 の部品工場を移すために、総延長1.5kmの「あみだくじ」状に人力で掘り抜かれた地下壕。 |
旧陸軍士官学校遥拝方位盤 | 富士山公園内 | 昭和十二(1937)年に東京から移転開校した陸軍士官学 校の生徒が、朝の日課で宮城(皇居)・明治神宮・伊勢神宮・各自の故郷に向かって遥拝するための方位を示す石盤。 |
戦闘機「雷電」の部品(別ウィンドウで開きます) | 座間市役所 (緑ケ丘1-1-1) | この局地戦闘機「雷電」の部品は、太平洋戦争終戦の目前に高座海軍工廠やその疎開先である芹沢公園地下壕で、台湾少年工を含む工員により100機程度製造されたと言われている。 |
名称 | 所在地 | 概要 |
秦野市平和祈念公園 | 平沢232-1 | 平成27年12月に、市内各所に点在していた15基の石碑を移設して開園しました。平和を願うシンボルであり、毎年平和祈念式典を行う。 |
忠魂碑平和塔 | 南矢名権現山山頂 | 昭和27年9月設置の忠魂碑平和塔。 |
国立病院機構神奈川病院旧給 水塔(旧傷痍軍人神奈川療養 所給水塔) | 落合666-1 | 昭和14年8月に旧傷痍軍人神奈川療養所の給水塔として建設。 |
平和の灯モニュメント(別ウィンドウで開きます) | 桜町1-3-2 | 秦野市民の平和のシンボルとして平成21年8月11日建立。広島平和記念公園の「平和の灯」から採火した火を、核兵器廃絶の願いを込めて灯し続けるモニュメント。 |
名称 | 所在地 | 概要 |
輝け杉の子像 | 大山阿夫利神社下社 (伊勢原市大山12) | 昭和19年に太平洋戦争による本土空襲が激化し、大山の先導 師旅館において川崎の学童を中心に学童疎開の受け入れを 行った。その後昭和60年に当時の疎開児童や教職員らの手により、学童疎開を受容してくれた方々への感謝と世界平和を祈念して建立された。 |
御野立所 | 小金神社周辺 (伊勢原市高森字谷入1093) | 大正10年11月18日、当該地の周辺一帯で陸軍大演習が実施さ れた。その際に東宮殿下(昭和天皇)がこの地を御野立所とされた。これを記念した「鶴駕行啓之所の碑」という碑や手水石等が建てられている。 |
平和慰霊塔 | 市民の森ふじやま公園 (伊勢原市東富岡134) | 平和の象徴となる場として、遺族からの要望を受け昭和55年に完成した。毎年献花式が行われ、戦没者の冥福と恒久平和を祈っている。 |
名称 | 所在地 | 概要 |
相模海軍工廠跡碑 | 一之宮6-2-25 |
旧国鉄相模線の西寒川支線跡を活用した一之宮緑道内八角広場に「旧国鉄西寒川駅・相模海軍工廠跡碑」がある。 |
護国霊塔 | 岡田2丁目6−1 | 安楽寺境内にある戦没者慰霊塔 |
※参考URL
寒川文書館(別ウィンドウで開きます)(寒川に関するさまざまな記録資料を収集・保存し、皆さま の調べ物に活用していただく施設。戦時中のできごとについても、先人の残した史料や書物などから学ぶことができます。)
名称 | 所在地 | 概要 |
忠魂碑 | 山西2122 | 昭和7年吾妻村在郷軍人會建立。 |
慰霊碑 | 山西2122 | 大東亜戦争(太平洋戦争)の慰霊碑。昭和30年二宮町建立。 |
招魂社 | 山西2122 | 昭和14年建立。詳細不明。 |
ガラスのうさぎ像(別ウィンドウで開きます) | 二宮838 | 戦争体験記出版から、永遠の平和を願う大勢の人々の浄財によって昭和56年8月設置。 |
名称 | 所在地 | 概要 |
忠魂碑 | 高麗2-9-47 | 建立場所は高來神社。建立年月日は大正15年6月。 |
靖国之塔 | 高麗2-9-47 | 建立場所は高來神社。建立年月日は昭和29年11月10日。 |
慰霊堂 | 国府本郷935 | 建立場所は、六所神社。建立年月日は、昭和59年11月23日。 |
忠魂碑 | 国府本郷935 | 建立場所は、六所神社、建立年月日は、昭和3年12月1日 (当初国府村役場)であり、昭和22年移設された。 |
※参考URL
令和6年度大磯町郷土資料館ミニ企画展「資料と証言に見る大磯と戦争」(別ウィンドウで開きます)
名称 | 所在地 | 概要 |
旧相模陸軍飛行場「正門門柱」 | 中津3801-1内 | 昭和16年から終戦まで存在した相模陸軍飛行場の正門にあった門柱。71cm四方、高さ216cm。もとは東に約400mの位置にあったが、現在の地に移設されたもの。 |
旧相模陸軍飛行場「格納庫基礎」 | 中津7257-1内 | 相模陸軍飛行場に4棟存在したうち、最南端の格納庫の基礎構造物。厚さ60.5cm、高さ350cmのコンクリート製。 |
旧相模陸軍飛行場「排水路橋」 | 中津5574-1内 | 相模陸軍飛行場に付属した排水路。水路が通る橋は全長 15.57m、水路の幅は1.5m。 |
愛川忠霊塔 | 半原121番地 | 戦没者慰霊塔 |
高峰忠霊塔 | 三増773番地 | 戦没者慰霊塔 |
中津忠霊塔 | 中津684番地 | 戦没者慰霊塔 |
※参考URL
愛川百年旅SPECIAL「復活の台地」(Youtube_愛川町公式チャンネル)(別ウィンドウで開きます)
名称 | 所在地 | 概要 |
あじさい橋 | 湯本 | 現在の湯本富士屋ホテルの場所にあった旅館「箱根三昧荘」 が戦時中陸軍病院箱根臨時箱根療養所として使用された際 に、箱根湯本駅からの導入路として使用されたことから、 「ほまれ橋」と呼ばれた。1996年に現在の名前に改称。 |
阿字ヶ池 | 芦之湯 | 戦時中、乗艦の事故により日本滞在を余儀なくされたドイツ 海軍兵が芦之湯温泉の松坂屋に滞在中、村のため防火用水等 の目的で掘った池。芦之湯地内には、終戦後、事故で亡くなったドイツ兵1名の墓もある。 |
忠魂碑 | 湯本406 (早雲寺境内) | 大正6年に、湯本村民で西南戦争から日露戦争までに戦死された8名の慰霊顕彰のため建立された。 |
慰霊堂 | 湯本406 (早雲寺境内) | 湯本村民で、日露戦争以後第二次世界大戦までの間に戦死された87名の慰霊顕彰のため、昭和30年代に建てられたもの。 |
忠魂碑 | 小涌谷460 (常泉寺墓地内) | 明治38年に温泉村、宮城野村、仙石原村の連合軍人会によって建立。後に第二次世界大戦までの戦没者も合祀された。 |
忠魂碑 | 宮城野539-2 | 昭和8年に宮城野村、宮城野軍人会によって建立された。陸軍中将本庄繁による「忠魂碑」の文字の下、日露戦争から第二次世界大戦時の戦没者76名の名が刻まている。 |
忠魂碑 | 仙石原 (仙石原交差点臨時駐車場) | 昭和31年、仙石原村が建立したもので、表面の「忠霊碑」の文字は野村吉三郎による。裏面には仙石原村民で戦死された 36名の名が刻まれている。 |
戦没者慰霊碑 | 箱根561 | 昭和32年、旧箱根町の有志の方々が中心となって建立したもので、「魂」と刻まれた碑には41名の戦死者の名前が刻まれている。昭和62年には手前に「戦没者慰霊碑」と刻まれた石碑が建てられた。 |
名称 | 所在地 | 概要 |
光風荘(別ウィンドウで開きます) | 宮上562 | 昭和11年の2・26事件で牧野伯爵が襲撃され、東京以外の唯一の現場となった。事件時に建物が焼失するも、その翌年に再建され、2003年7月には資料館として開所された。 |
重光葵記念館 | 宮上684 | 外交官・政治家として活躍し、敗戦後の日本政府の外務大臣として1945年の連合国への降伏文書調印式で著名をした重光葵が静養していた別荘。その活躍を記録した写真やビデオの展示をしている。 |
慰霊碑 |
子の神社(湯河原町福浦129) 素鵞神社(湯河原町吉浜1047) 五所神社(湯河原町宮下359-1) |
戦没者の御芳名が刻印されている。 |
防空壕跡 | 宮下343-1 | かつて防空壕として使われていた、東海道線下を通る通路。 |
名称 | 所在地 | 概要 |
慰霊塔(酒田地区) | 延沢465番地 | 沖縄をはじめ国内外諸地域において戦没された酒田村出身者の諸霊(85柱)を祀っている。 |
殉国英霊之碑(吉田島地区) | 吉田島2028番地 | 沖縄をはじめ国内外諸地域において戦没された吉田島村出身者の諸霊(35柱)を祀っている。 |
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