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令和2年9月30日掲載

ウイルス学エピソード

(7)黄熱にまつわるエピソード

① なぜ、黄熱は熱帯・亜熱帯アジアで流行しなかった?

黄熱は蚊が媒介するウイルス感染症です。黄熱ウイルスは2014年に東京で国内流行が発生したデングウイルスと同じフラビウイルス属のウイルスで、都市で流行する場合の主媒介蚊はネッタイシマカです。ネッタイシマカはヒトスジシマカと同じくデングウイルスの媒介蚊でもあります。


ネッタイシマカ(国立感染症研究所昆虫医科学部撮影)
(吸血したため腹部が血液で赤くなって膨らんでいます。)
日本では熊本県や沖縄県に生息していたことがあるが、現在は未定着。

黄熱は17世紀から18世紀にかけて、アフリカや南米を流行地として北米、ヨーロッパでも都市型黄熱の流行が発生しました。しかし、デング熱の流行地でネッタイシマカの活動が活発な東南アジア、南アジアに黄熱ウイルスが侵入し黄熱流行が発生したという記録はありません。

黄熱が文献として記録されているのは、1648年にメキシコのユカタン半島やカリブ海の島などでの流行が最初です。黄熱の流行は新大陸で何度も発生したことから、その起源はカリブ海沿岸地方と考えられていました。

しかし、18世紀後半に黄熱が西アフリカにも存在することが確認され、黄熱の起源が西アフリカであるという説とカリブ海沿岸起源説で激しい論争になりました。16世紀以降に西アフリカから多くの黒人奴隷が船で新大陸に運ばれてきたという当時の人の流れやその後の様々な検証から西アフリカ起源説が有力になりました。しかし、植民地時代の人の流れはヨーロッパからアジアにもあり、黄熱ウイルスの媒介蚊であるネッタイシマカも熱帯・亜熱帯アジアに生息していました。しかも、ネッタイシマカはかなり激しく発生し活動しており、現在でもその活動はますます活発でデング熱の大きな流行が毎年発生しています。これは蚊媒介ウイルス界の謎です。しかし、17世紀から18世紀のアジアとアフリカとの人や物流の行き来は現在と比べればまだまだ少なかったでしょう。それであれば偶発的ともいえる確率だったのかも知れません。

では、現在はどうでしょうか?人や物流の移動が飛行機時代となり黄熱感染者や感染蚊の移動のリスクはますます高くなっていてもおかしくありません。そのリスクを下げているのが、1937年にマックス・タイラーによって作られた黄熱ワクチンです。黄熱のワクチン開発をめぐる運、不運に関するお話をこれから展開します。

黄熱ワクチンの接種が推奨される地域(WHO、アクセス日:2020年9月15日)

② 黄熱研究における運・不運

ちなみに黄熱病という病名は野口英世先生(以下敬称略)の伝記の影響で“病”をつけがちですが、yellow feverという病名の正しい訳語は“黄熱”であり黄熱が正しい病名です。黄熱ワクチンは残念ですが野口英世が作ったものではありません。


(↑野口英世が横浜検疫所に赴任中に業務にいそしんだ細菌検査室:横浜市長浜野口記念公園内に保存されている)

野口英世は生来の才能と並外れた努力により当時世界最高レベルの米国ロックフェラー研究所所員のポストを得、梅毒スピロヘータの発見など微生物学における数々の新発見を成し遂げ名声を得ていました。1918年には期待を担ってエクアドルのグアヤキルに赴きました。

彼の不運は、当時グアヤキルで黄熱だけでなくワイル病*も流行していたことでした。野口が病原体検出に用いた材料は現地の医師から黄熱患者の検体として提供されましたが、実はワイル病患者でした。黄熱とワイル病は症状が類似するため、現地の医師が鑑別することは困難だったにもかかわらず、その医師の臨床診断を信じてしまいました。


黄熱・ワイル病の類似する症状

野口がその患者の検体から黄熱の病原体としてレプトスピラ・イクテロイデス(細菌)を発見したのはエクアドルについてわずか9日目のことでした。その報告を受けてロックフェラー財団がワクチンを開発し、中南米各地に供給され集団接種が実施されました。もちろん黄熱には効果がないものでしたが、たまたま集団接種が開始された頃には中南米の黄熱流行が終息し始めていて効果があったように見えたのでした。野口は「人類の救世主」とまで持てはやされたのです。

そんな野口の発見が1920年代になり疑問視され激しい論争が起こりました。特にロックフェラー財団のアフリカの拠点であるラゴス研究所(ナイジェリア)のスパークはサルを用いた感染実験から黄熱の病原体はウイルスであると主張していました。この反論に応ずるため、野口は黄熱の流行が勃発した西アフリカに乗り込んでいきました。しかし、彼が西アフリカに到着した1926年11月には現地の黄熱流行はほぼ沈静化していました。ガーナのアクラ近郊でようやく患者を発見し、その患者の血液などを用いたサル感染実験を始めたのです。野口が自分の細菌説を確信する根拠を得たかどうかは定かではありませんが、1927年5月19日にアクラを出発し帰国の途につく日程も決まっていたなか、5月11日に高熱を発し翌12日に入院し黄熱の診断が下され、5月21日に51歳で人生の幕を閉じたのです。

なぜ黄熱ウイルスに感染したのか?黄熱流行が沈静化していた現地の状況を考えると日常生活で感染蚊に刺された可能性は低い。やはり、サルを用いた実験中に感染した可能性が高いと私は考えます。野口は死ぬ前に「決して実験中の事故ではなかった!」と述べていたそうですが、針刺し事故や解剖器具による損傷はなかったにしても、死亡した黄熱ウイルス感染サルの体内には黄熱ウイルスがかなりの量で存在しているので、何らかの経路で眼や口などの粘膜を介して感染した可能性は否定できません。ウイルス説を唱えたスパークも、アクラで野口の助手を務めたヤングも黄熱で死亡していますが、いずれもサル感染実験に従事していたことからサルの解剖中に感染した可能性があります。

黄熱研究で幸運に恵まれたのは、マックス・タイラーです。タイラーは地味ではあるが、正確な観察力と鋭い直観力をもった研究者でした。彼は野口に遅れてロックフェラー研究所に入所しましたが、野口が亡くなった1927年までには黄熱の病原体がウイルスであることを突き止めていました。Asibiという患者からの分離ウイルス(Asibi株)をニワトリ胚細胞で培養を繰り返し100代以上も継代することにより、弱毒ウイルス17D株を作出できました。これは強毒のAsibi株をニワトリ胚細胞で繰り返し継代することによる弱毒変異株の出現の確率とその弱毒株を選択する確率を考えるとその確率は非常に低く、いいかえれば偶然に支配されたものといえるでしょう。事実タイラー自身はもとより他の研究者により行われた追試で、17D株のような優秀な弱毒生ワクチン株は二度と得られませんでした。マックス・タイラーは黄熱ワクチンの開発で1951年ノーベル医学生理学賞を受賞しました。免疫学の大家パウル・エールリッヒが「研究者が成功するには3つのGが必要である」といったそうです。それはGeschick(才能)、Geld(資金)それにGlueck(幸運)だというのです。黄熱研究に関しては、野口英世はGlueck(幸運)に恵まれなかったということです。

*ワイル病はレプトスピラという細菌に感染して発症するレプトスピラ症のなかで黄疸、出血、腎障害を伴う重症型の病名です。

神奈川県衛生研究所第19代所長
髙崎 智彦
(図:木村 睦未)

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