更新日:2023年12月8日
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湘南地域のモデルコースをご紹介しています。
※ 本モデルコースの内容は、2018(平成30)年8月時点のものです。
※ 浮世絵は、広重『東海道五拾三次 大磯・虎ヶ雨』、広重『虎御前』(国立国会図書館デジタルコレクションより)
※ 地図は、コースのポイントをわかりやすく示すための概略図です。そのため縮尺等が正確でないことがあります。
(化粧坂松並木)
東海道五十三次の8番目の宿場町、大磯宿をめぐるコースです。
大磯宿には、この化粧坂(けわいざか)付近と大磯中学校前などに松並木が残されていますが、まず向かうのは、大磯駅から徒歩約14分のところにある、化粧坂松並木です。
取材を行ったこの日は夏の猛暑でしたが、すっくと伸びた松の木々が濃い影を作っていました。かつて旅人たちも、汗をぬぐいながら木陰を選び、足を運んだのかもしれません。
(広重『東海道五拾三次 大磯・虎ヶ雨』国立国会図書館デジタルコレクションより)
初代歌川広重の浮世絵に描かれたのも、この化粧坂あたりと言われています。「虎ヶ雨」とは、陰暦の5月28日に降る雨のことで、この地に伝わる、曽我十郎と虎女(とらじょ)の悲恋にちなみ、恋人曽我十郎の死を悲しんで虎女が流す涙と言われ、夏の季語にもなっているのだそう。
大磯には、虎女の言い伝えの残る場所がいくつか残されていますが、次に向かう「化粧井戸」もそのひとつです。
(広重『虎御前』国立国会図書館デジタルコレクションより)
化粧坂の途中に、虎女の伝説の伝わる「化粧井戸」が残されています。
鎌倉時代の曽我十郎・五郎の兄弟による父の敵討ちの様子を描き、日本三大敵討ちとしても知られる『曽我物語』。そのヒロインである虎女は、主人公の曽我十郎の恋人として登場し、兄弟の死後、ふたりを供養する女性として描かれています。
(化粧井戸)
大磯で暮らしたと言われる虎女が、化粧をする際に使用した井戸、と言われるのがこの化粧井戸です。
このほか、旧東海道沿いにある延台寺には、刺客から曽我十郎の命を救ったと言われる「虎御石(とらごいし)」が残さされています。大磯宿を旅した人々も、虎女伝説の残る名所を訪ね歩いていたのかもしれません。
(小島本陣跡)
名所の多い宿場町として、江戸時代大いににぎわった大磯宿。
約1.3kmの道筋に、66軒の旅籠と小島・尾上・石井の3つの本陣が置かれました。
1836(天保7)年、大火で焼失するものの再建され、小島本陣、尾上本陣は幕末まで続きました。
現在はその跡地に記念碑が建っています。
(鴫立庵)
次に向かうのは、鴫立庵。
平安時代末期の歌人・西行法師が詠んだ、「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」にちなんで名づけられた鴫立庵は、江戸時代初期に崇雪(そうせつ)が草庵を開いたことに始まる、歴史ある俳諧道場です。
(言葉のオブジェ)
敷地内には、多くの歌碑がありますが、西行の歌を刻んだ「オブジェ」も設置されています。(大磯町内には、このほかに4箇所(旧島崎藤村邸、県立大磯城山公園(旧吉田茂邸地区の旧吉田茂邸内と、旧三井別邸地区内の大磯町郷土資料館)、旧木下家別邸(大磯迎賓舘))に、それぞれとゆかりのある物や言葉をモチーフにしたオブジェが設置されています。)
また、鴫立庵の「法虎堂」には、19歳の虎女を写したと言われる木造も安置されています。
(東海道松並木)
1600(慶長5)年の関ヶ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康は、翌1601年、東海道に宿駅の制度を設け、その整備を行いました。1604(慶長9)年には、36町を一里(約3.9km)として一里塚をつくり、街道沿いにマツやエノキが植えられたと言います。
大磯中学校付近の東海道松並木や化粧坂松並木もこの時に整備されたものだそう。
東海道松並木沿いには、のちの明治期に元勲たちの別荘が立ち並びました。
旅人の行き交う交通の要所として、また人々の憧れの保養地として、大磯の歴史を感じられる場所です。
(東海道一里塚の跡)
江戸時代、街道には日本橋を起点として、一里ごとに塚が設けられました。
大磯宿からさらに西に進んだ現在の二宮町にも、「江戸より十八里」の一里塚が築かれ、その跡が、川勾神社入口の国道1号線沿いに残されています。
このあたりは「梅沢の立場」と呼ばれ、小田原と大磯の間の宿として賑わいを見せたと言います。
現在は、跡地に記念碑が建っています。
企画調整部 商工観光課
電話 0463-22-9268
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