更新日:2023年4月26日

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梶原景時と寒川

梶原景時ゆかりの地・寒川町をめぐるモデルコース等を紹介しています。

梶原景時をご存じですか?

2022年放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に、源頼朝を支えた「13人」の御家人のひとりとして登場する「梶原景時」。

寒川町にゆかりのある「梶原景時」は、平家方でありながら、敵将・頼朝の命を救い、後に頼朝に仕えて鎌倉幕府創設に奔走したが、頼朝の死後わずか一年で悲運の最期を遂げる、というドラマチックな人生を送った人物です。

一般的に「悪人」のイメージが強い景時。実際には、どんな人物だったのでしょう?
長年、景時や郷土史を研究されている「寒川町梶原公顕彰会」(副会長)の入澤さんにお話を伺いました!

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教えて!入澤さん!

Q1.寒川にゆかりがあり、鎌倉幕府草創期に活躍したという梶原景時とはどのような人物ですか?

A1. 景時は、同時代の僧・慈円に「鎌倉本體(ほんたい)の武士」(武士の中の武士)と言わしめた人物で、頼朝を常に忠実に補佐し、重用された、文武ともに優れた武士です。
伊豆に流されていた頼朝は、1180(治承4)年に挙兵しましたが、石橋山の戦いで大敗を喫し、「鵐(しとど)の岩屋」に身を隠しますが、平家方に取り囲まれてしまいます。この絶体絶命のピンチに、平家方の一員として参戦していた景時は、頼朝を密かに逃がし、命を救いました。これが、頼朝と景時の出会いと言われています。
その後、頼朝が再挙すると、景時は「言語を巧みにする」として家臣として認められ、源平合戦で多くの功績をあげたほか、頼朝の片腕として侍所所司をはじめ様々な重職に携わりました。
しかし1199(正治元)年1月に頼朝が死去すると、景時の立場は一変。11月には御家人66人の連名の弾劾を受けて、鎌倉から追放され、所領の相模国一之宮(現寒川町)への退去を余儀なくされます。そして頼朝の死からわずか一年後の翌1200年1月、長男・景季(かげすえ)ら一族33名とともに一之宮を出立した景時は、駿河国清見関(現静岡市)で在地の武士と遭遇・交戦の末、付近の山中で一族とともに自害しました。首が架けられた高源寺(静岡県)には、人目を偲んだ供養碑が立っています。

Q2.景時と寒川との関連について教えてください。

A2. 景時の本宅は鎌倉にありましたが、日頃の情報収集や鎌倉の非常時に守りを固める意味もあり、相模国一之宮(寒川町)にも館を築いていました。当時はまだ鎌倉幕府も盤石ではなく、土地をめぐる争いも日常的にありました。頼朝の忠臣であった景時は、そうした在郷の有力な武士たちの争いに目を光らせつつ、当時交通の要所でもあり、且つ、鎌倉の西の守りを固める意図もあり、相模川のほとり寒川の地に館を構えたものと思われます。

Q3.景時は長らく「悪人」として捉えられてきたそうですが、どのような人物だったのでしょう?

A3. 当時、源氏方の武士の多くは、その多くが文字を読むことも書くこともできませんでした。その中で「言語を巧みにする」という評価を得ていることからもわかるように、景時は文字の読み書きや計算ができるだけでなく、和歌などにも通じた教養人でした。特に頼朝は和歌を好んだことから、連句など風雅な掛け合いを景時と楽しんだと言われ、二人がともに詠んだ歌も残されています。また、源平合戦時には、景時だけが詳細な戦況報告をすることができたことから、頼朝から絶大な信頼を得たと言われています。こうしたことから、他の御家人から妬み・恨みを買うことになったのかもしれません。

また、江戸時代に歌舞伎の演目で義経が人気を博し、人々に判官贔屓(ほうがんびいき)の心情が共有されると、頼朝の忠臣として義経と対立することも多かった景時があたかも悪人であるかのように認識されるようになりました。

こうした頼朝や義経との関係が影響し、「景時=悪人」というイメージにつながったのかもしれません。

Q4.景時には、子どもを想う親としてのエピソードが残されているそうですね?

A4. 景時には「二度之懸(にどのかけ)」といわれる、子を強く思う父としてのエピソードが残されています。
平家との戦いの中、勇猛果敢で知られた長男・景季(かげすえ)や次男・景高(かげたか)が敵陣深く入り込んでしまうと、自らの危険を顧みず、「世にあらんと思うも 子供を思うがためなり 源太(注:長男・景季)討たせて世にありて 何かせん さらば」と言い残し、息子たちを助けに駆け戻ったと言われます。
合理的な考えを持ち、頼朝に忠実で仕事ができた上、文化的素養もあった景時は、当時の御家人の中でも際立つ存在だったことでしょう。しかし、それ以上に、家族思いで人間味ある人物だったのではないでしょうか。

Q5.入澤さんにとっての、梶原景時の魅力とは?

A5. 景時は、頼朝が目指す武家政権樹立を最も正しく理解し、そのために時に手段を選ばず行動した人物でした。相手が義経であろうと、例え自分の兄弟や同族であろうと公平に相対したため、悪評を受けることもありましたが、その信念は揺らぐことがありませんでした。また、他の御家人に排斥された時にも、一言の弁明もせず、多くの支援者がいたにもかかわらず鎌倉を戦場とすることをよしとしない、思料の持ち主でした。一般的な「景時=悪者」という評価に反して、多くの史跡や逸話が全国に残され、その人となりが語り継がれる景時の人間性にあこがれます。

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