1 総説 1 沿革  2 行政区画         3 市区町村の合併・境界変更等一覧 4 地形と地質         5 地形区分図         6 地勢図         7 港湾及び漁港         8 海岸線延長         9 河川 1 沿革 地名の由来  「かながわ」の名は、鶴岡八幡宮所蔵の文永3年(1266)の文書に、「武蔵国稲目、神奈河両郷」の郷名として初めて現れ、カメ河、神名川、金河、狩野河、江戸時代の『江戸名所図会』には、上無川とも書かれ、武蔵国橘樹郡神奈河(現在の横浜市神奈川区)の地域をいい、古代から陸上・海上交通の要衝として知られていた。 この地が県名になったのは、安政元年(1854)に江戸幕府がペリー提督と「神奈川条約」(日米和親条約)を結び、同5年(1858)日米修好通商条約を結び、翌年6月には横浜港開港にあたり「神奈川奉行所」を設置したことに起因している。その後明治維新政府が、慶応4年(1868)4月に、その行政権を引き継いで神奈川裁判所と改称し、明治元年(1868)9月に神奈川県となった。 原始・古代  遠く数千年の昔、武相の山岳地帯や台地上にはうっそうとした森林が茂り、富士山は盛んな噴煙を上げていた。相模川や酒匂川に沿って、相模湾が深く丹沢山塊まで湾入し、東京湾も川越・松戸あたりまで入っていた。更新世(洪積世)の後期になると人々が住むようになり、先土器文化時代の遺跡(横浜市都筑区折本、都田等)や縄文文化時代の遺跡(横須賀市夏島、横浜市神奈川区三ツ沢等)にみられるように、少しずつ広がっていった。 やがて南関東も農耕を基礎とした弥生文化時代に入るが、農耕具が石器から鉄器に変わると集落も増えた。4世紀の後期には古墳が作られ(川崎市幸区白山古墳、横浜市港北区観音松古墳等)、豪族たちは中央の大和政権と結ぶことによって勢力を伸ばした。 次いで国郡が制定され、相模は酒匂川流域一帯の師長(しなが)国と、相模川流域の相武(さがむ)国になった。更に大化改新(645)以後は足柄以東の8郡を合併して1国とし、国府・国分寺(海老名市)を設けて国府には国司を任命した。 鎌倉時代  8世紀末に、都は奈良から京都へ移り貴族政治は全盛を迎えたが、その没落を早めたのは地方武士の台頭であった。平将門の乱や平忠常の乱が起き、10世紀ごろには平氏の勢力は強大を極めた。源氏も源頼義が平忠常の乱を鎮圧して初めて関東に進出したが、源義朝が平清盛に滅ぼされてから再び平氏の勢力が関東を支配し、相武の武士は源平両氏の勢力に左右された。 源氏の再興を図った頼朝は、関東の武士に呼びかけて治承4年(1180)鎌倉に入った。そして平氏を滅ぼしたのち、建久3年(1192)鎌倉幕府を開いた。幕府は内乱を鎮圧し、さらに荘園への勢力を拡大するため守護・地頭の制度を確立し、武家政治を固めた。この幕府を支えた地方武士に熊谷氏・渋谷氏・都築氏・曽我氏・海老名氏・波多野氏・大森氏等があり、その名は今日も地名として残っている。 頼朝の死後、鎌倉幕府の実権は北条氏に奪われた。北条氏は、当初は有力御家人らによる合議制で政権にあたったが、元寇以後しだいに専制化した。そのため、各地で農民や御家人らの不満が絶えず、元弘元年(1331)後醍醐天皇は、この情勢を倒幕の好機とみて楠木正成に挙兵させた。足利尊氏や新田義貞らはこぞってこれに加わり、元弘3年(1333)鎌倉幕府は滅びた。 室町・戦国時代  勢力をのばした足利尊氏は、鎌倉にくだって朝廷に反抗し、弟直義は朝廷側に立った新田義貞討伐を名目に諸国の兵を集めた。再び入京した尊氏は延元3年(南朝)暦応元年(北朝)(1338)征夷大将軍となり、室町幕府を開いた。相州武士の波多野・曽我両氏は尊氏側について新田勢を関東から追い払い、尊氏の子足利基氏が鎌倉公方となって鎌倉に入り関東を支配した。 その後鎌倉に強固な地位を築いた上杉氏は、山内・扇谷の二派に分かれて勢力を競った。15世紀の後半、扇谷上杉定正と山内上杉顕定が管領職を争っている時、駿河の内乱を鎮めて勢力を伸ばし東国進出の機会をねらっていた伊勢新九郎長氏(北条早雲)は、明応4年(1495)小田原城を奪い、関東制圧の足がかりをつくった。永正13年(1516)には三浦氏を滅ぼして、北条氏の所領は伊豆一円から相州全域と武蔵国久良岐にまで及んだ。 永禄4年(1561)、越後の長尾景虎(上杉謙信)は小田原城下に迫ったが、決定的な勝利を得るには至らず越後へ帰った。北条氏政のとき下総・下野へ進出し、北条氏は早雲が相州へ乗り出して以来最大の版図をつくった。 天正10年(1582)天目山の戦いで武田氏は滅亡し、同17年豊臣秀吉は全国に北条討伐の軍令を下し、翌18年には相州へ兵を進め、小田原城周辺での激しい戦いの末北条氏を破った。 江戸時代  江戸時代に入って関八州は徳川家康の領有するところとなった。小田原には譜代大名の大久保氏が入り、他の地域は天領(幕府直轄領)または旗本領となった。 江戸への海上交通の要地である三崎や走水には番所が設けられ、享保5年(1720)には浦賀に奉行所が置かれた。藤沢・平塚・大磯など東海道筋の各宿場は繁栄した。藤沢宿は遊行寺の門前町として早くから発展し、江の島への入口としてにぎわった。 一方、矢倉沢や津久井の脇往還は荷物の輸送が中心となり、大山街道は阿夫利神社の信仰とともに栄えた。 秦野のたばこ・津久井の川和縞・半原の撚糸等県央の産業は大いに興り、厚木はこれらの物資の集散地となった。 宝永4年(1707)の富士山の大爆発による降灰の被害は相模・武蔵等近隣諸国に及び、小田原藩領の村々は一時天領に振り替えられた。その後幕府代官伊奈半左衛門や蓑笠之助・田中丘隅らによって酒匂川の治水かんがい工事が行われ、足柄平野の村々は息をふきかえした。この頃から新田開発が各地で進められ、流域の河川敷や扇状地・台地などにも開墾が進められた。 多摩川の河口では、海岸地帯の埋立てが名主池上太郎左衛門らの指導によってなされ、砂糖・塩・果樹栽培等の新しい産業が生まれた。 天保4〜7年(1833〜36)に起こった全国的な飢饉を小田原藩領も免れることはできなかった。その後、農政家の二宮尊徳が荒廃した農村を復興し、尊徳仕法が領内に施された。 嘉永6年(1853)ペリーの来航により近代日本の幕は開かれた。安政元年(1854)3月、日米和親条約が、同5年には日米修好通商条約が結ばれ、世界に向けて第一歩を踏み出したのである。横浜村が開港場と定められ、戸数わずか101戸の寂しい寒村に各地から貿易商が移住を始め、外国人の居留地も設けられ、運上所(税関)が置かれた。 こうして生糸・茶・蚕種・海産物などを輸出し、毛織物・武器等を輸入する貿易が盛んに行われ、開港直後の横浜における貿易額は、全国の3分の2を占める盛況であった。 明治時代  明治に入ると、開港場横浜は、西洋新文化導入の窓口となった。電信創業明治2年(1869)、日刊紙「横浜毎日新聞」創刊同3年(1870)、洋式劇場「ゲーテ一座」開場同3年(1870)、横浜〜新橋間鉄道開業同5年(1872)、ガス燈点火同5年(1872)など、いずれも日本で最初のものである。これらの西洋文物は、いずれも俗に「横浜一番」といわれ、年とともに県内全域に広がっていった。 一方この時期、明治の草の根民主主義ともいえる自由民権運動が、豪農層の間に広く支持され県内各地で高まった。そのころの愛甲郡荻野村(現厚木市)は、三多摩とならんで県内の民権運動のメッカであり、天野政立・大矢正夫・難波惣平など多数の在地民権家を生み出した。 明治中期から大正にかけての県内の諸相をながめてみると、横浜は生糸の輸出、あるいは外国航路の豪華客船の寄港によってますます栄えた。フランスのツーロン港に似た立地条件にあった横須賀も、海軍工廠や鎮守府が置かれて以来軍都として繁栄した。また川崎は、大正2年(1913)から浅野総一郎等の経営する鶴見埋築会社によって始められた六郷川と鶴見川下流域の海岸578haの埋立てと、そこへの各種工場建設によって、工業都市として発展してきた。 一方、明治20年(1887)に東海道線が国府津まで延伸し、22年には横須賀線大船〜横須賀間が開通し、鎌倉・逗子・葉山・鵠沼・大磯・小田原等が別荘地として脚光を浴びるようになってきた。 内陸部にも鉄道が敷かれ、明治41年(1908)には東神奈川〜八王子を結ぶ横浜線が開通し、津久井・愛甲で生産する生糸・絹織物を横浜港へ輸送した。 大正時代  大正3年(1914)、第1次世界大戦が起こり、大戦による好景気は俗に成金と呼ばれる新しい企業家を生みだした。県下の内陸地方の製糸業と織物業にも、空前の活況をもたらした。 こうした輸出貿易の躍進は反面には物価高騰を呼び、京浜工業地帯の大工場で、賃上げ要求の労働争議が頻発した。これらの争議を通じて、県下の労働組合の組織化も急速に進んだ。大正9年5月1日、横浜仲仕同盟会が横浜でメーデーを挙行した。日本初のメーデーである。 大正12年(1923)9月1日、マグニチュード7.9の大地震が関東を襲った。相模湾北西部に震源をもったこの地震は県下全域を直撃した。そのうえ相模湾沿岸には津波が襲来し、県民の犠牲を拡大した。当時県内には、27万4,300世帯あったが、そのうち86%に当たる23万7,338世帯が何らかの被害をうけた。人命の犠牲は、死者・行方不明3万1,800人、被災者の総計は117万5,000人と伝えられている。 このように県全域に大きな被害をもたらした関東大震災は、京浜工業地帯の諸工場にも軒並み甚大な被害を及ぼし、経済界の打撃は大きく、本県歴史の一大転換期を画するものとなった。 昭和前期  昭和2年に小田急、5年に湘南電鉄(現京急)が営業を開始し、7年には東横線、8年には相鉄も全線開通し、県下の内陸部、京浜間、東京湾沿いの地域開発に鉄道は大きな役割を果たした。 昭和12年7月、日中戦争が勃発し、日本が“戦争の時代”へ突入すると、軍需品の増産のために、京浜工業地帯の工場が必要とする水と電気の確保が重要となり、13年に相模川のダム建設が県営事業として進められた。一方、このころから軍都化が進み、横須賀を含む三浦半島の要塞化とともに陸軍士官学校・造兵廠などが相模平野に建てられ、県内は戦時色一色に塗りつぶされた。 昭和16年12月8日には太平洋戦争が勃発、緒戦は優勢にみえた戦局も日増しに不利になるにしたがって、本土決戦への覚悟が県民に強要されていった。20年8月15日、日本は「無条件降伏」という敗戦の日を迎えた。この間、都市部の横浜・川崎・平塚・小田原では、激しい空襲をうけ多くの人命を失い、住宅・施設を破壊された。県民で直接戦闘に参加した青壮年男子は19万84人、うち戦死・戦病死者は5万98人であった。 昭和後期〜現代  太平洋戦争は終結したが、本県にとっては占領軍の進駐が行われたところから、県政及び県民生活は他県とは異なった影響を受けることになった。特に横浜は市街地面積の27%、建物94万7,100m2を占領軍によって接収された。横須賀市にはアメリカ極東海軍司令部が置かれ、旧軍港一帯を米海軍が使用することになり、海軍厚木飛行場は米軍基地となった。 こうして講和後の日米行政協定が締結された昭和27年段階でも、県下の接収面積は土地が3,736万901m2、建物は213万4,900m2に及び、沖縄県に次ぎ全国第2位であった。 昭和22年4月、戦後の地方自治制度の発足に伴い、明治以来77年間つづいた“官選知事”時代の幕が降りて、22年4月、初の“公選知事”として内山岩太郎氏が就任した。歴代知事がほとんど内務官僚だったのに対し、内山知事は外交官出身で深刻な食糧難の克服、県施設の新設、県民の水資源の確保など、県の復興と民生の安定に功績を残し、42年4月退任した。 2人目の公選知事となった津田文吾氏は在任2期の間に、自然の尊重と人間性の回復を基調にした「神奈川県新総合計画」を策定し、大企業の乱開発の規制、流入人口の抑制、公害防止など数々の事業に取り組んだ。 昭和50年4月に長洲一二氏が知事に就任し、県政の目標と方向を定めた長期総合計画「新神奈川計画」がスタートした。以来その後の社会経済状況に応じ二度にわたる改定を行い、さまざまな施策・事業に取り組んだ。平成3年には「第2次新神奈川改定実施計画」を策定し、計画の着実な実行の成果として、生命の星・地球博物館、総合防災センターなど各種施設が相次いで完成した。 平成7年4月、岡崎洋氏が知事に就任。21世紀を展望し、「活力ある神奈川、心豊かなふるさと」の創造を目指し新しい政策課題や時代ニーズに対応するため、県政運営の総合的指針となる「かながわ新総合計画21」を策定。計画の着実な実行を図るとともに、行政システム改革に着手。県組織を再編し県財政の健全化を目指した。この間、平成8年には県民活動サポートセンターを設置、平成10年度には戦後2度目の国体が開催され、21世紀最初の年となる平成13年には、2001年「希望の年」記念事業を展開した。また平成15年4月保健・医療・福祉の総合的な人材育成の拠点として、保健福祉大学が開学した。 平成15年4月松沢成文氏が知事に就任し、「神奈川力構想・プロジェクト51」を策定し、条例に基づく県民総ぐるみの安全・安心のまちづくりやインベスト神奈川による企業誘致の取組みなど、「活力ある地域社会・生きがいのあるくらしの創造」をめざした取組みを進めた。平成19年7月には、少子化や高齢化の進行、人口減少社会の到来など社会環境の変化を踏まえ、神奈川のもつ多彩な力を神奈川力(かながわりょく)と呼び、「神奈川力を高め、新たな時代を創造する」ことを基本に、「神奈川力構想・基本構想」を策定し、その実現に向け、具体的な取組みを「神奈川力構想・実施計画」で明らかにした。 (公文書館・総合政策課) 2 行 政 区 画 本県は明治元年(1868)6月には、小田原藩(大久保氏、7万5千石)荻野山中藩(大久保氏、1万3千石)六浦藩(米倉氏、1万2千石)幕府代官江川太郎左衛門支配地と、他に他藩の飛地・旗本領と神奈川府(旧神奈川奉行支配地)に分かれていた。明治4年(1871)7月の廃藩置県の際には、小田原県・荻野山中県・韮山県と、六浦県・神奈川県(元神奈川府)の5つに分かれていたが、同年11月に小田原県・荻野山中県・韮山県の3県が足柄県となり、六浦県と神奈川県が新しく神奈川県と称し、神奈川・足柄の2県に大別された。その神奈川県(県庁は横浜)は、久良岐・都筑・橘樹・多摩郡の一部(のちの三多摩)・三浦・鎌倉・高座の7郡からなり、一方の足柄県(県庁は小田原)は、大住・淘綾・足柄上・足柄下・愛甲・津久井及び伊豆の4郡と伊豆七島からなっていた。足柄県は明治9年(1876)に旧相模国全部が神奈川県に編入され、伊豆の4郡は静岡県に統合され、その後明治26年(1893)に南・北・西多摩の3郡が東京府に移された。明治29年(1896)大住・淘綾の2郡を合わせて中郡と改称した。 県内市町村については、明治21年4月市制町村制が制定されるに至り、横浜(明治22年4月)、横須賀(明治40年2月)、川崎(大正13年7月)、平塚(昭和7年4月)、鎌倉(昭和14年11月)、藤沢(昭和15年10月)、小田原(昭和15年12月)がそれぞれ市制を施行した。また昭和22年5月に地方自治法が施行され、茅ヶ崎(昭和22年10月)、逗子(昭和29年4月)、相模原(昭和29年11月)が市制を施行した。更に昭和28年10月に施行された町村合併促進法に基づき、市町村の新設及び編入合併が相次いで行われ、規模の適正化が進められた。昭和30年1月に三浦市(三浦郡の南下浦町、三崎町、初声村が合併)と秦野市(中郡の秦野町、南秦野町、東秦野村、北秦野村が合併)が、そして同年2月に入り厚木市(愛甲郡の厚木町、南毛利村、睦合村、小鮎村、玉川村が合併)が市制を施行した。更に昭和34年2月には大和市が市制を施行した。 その後昭和38年1月には中郡西秦野町が秦野市に、46年4月には足柄下郡橘町が小田原市に編入合併された。一方、3万市制の特例措置により46年3月に伊勢原町が、同年11月には高座郡の海老名町、座間町が、47年4月に足柄上郡の南足柄町が、53年11月に高座郡綾瀬町がそれぞれ市制を施行した。以上のような経過を経て、町村合併促進法施行以前、8市7郡35町71村であったものが、昭和53年11月に19市7郡17町1村に再編された。さらに、平成18年3月20日には津久井郡津久井町及び相模湖町が、19年3月11日には津久井郡城山町及び藤野町が、それぞれ相模原市に編入合併され、津久井郡は廃止された。そのため、県内の市町村数は平成19年3月に19市6郡13町1村となり現在に至る。 (市町村課) 3 市区町村の合併・境界変更等一覧 (平成21年3月31日現在)市町村課 (表省略) 4 地形と地質          1  地   形 本県は関東平野の南西部に位置し、面積は約2,400平方キロメートルである。 本県の地形は(1)丹沢山地と箱根火山で特徴づけられる起伏の激しい山がちの西部地域、(2)多摩丘陵と三浦半島でとらえられる丘陵地性の東部地域、(3)相模川を中心として、その両岸に広がる平坦な段丘と低地とからなる中央地域の三地域に大きく分けることができる。 方  位 地     名 経 緯 度(日本測地系による) 最東端(E) 川崎市川崎区浮島町 東経 139度47分58秒 最西端(W) 足柄上郡山北町(三国山) 東経 138度55分08秒 最南端(S) 三浦市城ヶ島安房崎 北緯  35度07分32秒 最北端(N) 相模原市藤野町(生藤山) 北緯  35度40分10秒 (1)  西部の山岳地域 北には本県で最も古い地層からできた小仏山地と、県内で一番高い蛭ヶ岳(1,673メートル)をはじめ1,300メートル前後の山々が連なる丹沢山地とがある。その前面に秦野盆地、大磯丘陵が続いている。南西には三重式火山で知られる箱根火山があり、酒匂川、狩川によってつくられた足柄平野がそのすそ野に広がっている。 (2)  東部の丘陵、台地の地域 北には海抜70〜90メートルの多摩丘陵、海抜40〜50メートルの下末吉台地があり、東京都に面して多摩川低地が続いている。南には多摩丘陵より古い丘陵地性の三浦半島があり、海岸線は屈曲に富み、いたるところにおぼれ谷(リアス式海岸)が発達している。 (3)  平坦な中央地域 本県の中央部を占めているこの地域は、北から海抜50〜150メートルの相模原台地、扇状地性の愛甲台地と続き、相模低地、南は湘南砂丘地帯となって相模湾に臨んでいる。相模川の上流には典型的な河岸段丘(3段の段丘面)がみられる。 このように変化に富んだ地形は、決して短期間にできあがったものではなく、実に数千万年にわたるさまざまな変遷を経てつくりだされたものである。 2 地   質 本県の地質は、地形にも現れているように、西部地域と東部地域とでは地層のできた時代、地質構造に大きな違いがある。 (1) 西部地域についてみると、約7,000万〜3,000万年前(中生代末から新生代初め)にたい積したと考えられている小仏層群や相模湖層群が、陣馬山、相模湖、津久井湖にかけて露出している。両層群を構成する岩石は硬砂岩、粘板岩、千枚岩などからなり、県下でみられる最古の岩石である。 丹沢山地は、約2,000万〜600万年前(新生代新第三紀の中頃から終り頃)にたい積した主に火山さいせつ物−緑色ぎょう灰岩−によってできた丹沢層群からなっている。その丹沢層群の下部に花こう岩質マグマが貫入して、丹沢は東西の方向に伸びたドームのように隆起した。隆起した丹沢は削剥され、現在その中心部の石英閃緑岩やトーナル岩が地表にあらわれ、白い岩肌を呈している。この花こう岩質マグマに接した丹沢層群の一部は、変成作用を受けて、石英閃緑岩やトーナル岩の北および東側にホルンフェルスが、南側に結晶片岩が生じている。 丹沢山地の周囲には、約600万〜100万年前(新第三紀の終わりから第四紀はじめ)にたい積した地層が分布している。それは、桂川流域の西桂層群(主に砂岩、れき岩からなる)、中津山地の愛川層群(主に火山さいせつ岩、れき岩、砂岩からなる)、足柄山地の足柄層群(主にれき岩、砂岩、泥岩からなる)などである。 大磯丘陵は、ほとんど約50万〜10万年前(新生代第四紀中頃)の地層(主に砂、泥からなる)と関東ローム層からできているが、南東部には、約1,500万年前(新第三紀中頃)にたい積した高麗山層(砂岩、泥岩、玄武岩溶岩)、約500万年前(新第三紀末)にたい積した大磯層(ぎょう灰質砂岩、泥岩)と鷹取山層(主にれき岩からなる)とが分布している。 湯河原火山、箱根火山は、約70万年前(第四紀中頃)以後に活動した火山で、基盤の湯ヶ島層群、早川ぎょう灰角れき岩、須雲川安山岩類、天照山玄武岩類の上に山体をつくったが、湯河原火山の山頂部は侵食されて、元の姿をとどめていない。 (2) 東部地域では、三浦半島の中央に約1,500万年前(新第三紀の中頃)にたい積した葉山層群(主に泥岩と砂岩からなる)が、北西−南東の方向に狭い帯状に分布している。葉山層群の北側には、約500万〜100万年前(新第三紀末から第四紀)にたい積した地層である三浦層群から上総層群が北へ重なってゆき、横浜から多摩丘陵まで分布している。葉山層群の南側にも、三浦層群が分布している。多摩丘陵の一部、下末吉台地、三浦半島の宮田、大津付近の台地には、約30万年前以後(第四紀中頃)にたい積した地層が分布し、その上を厚く関東ローム層が覆っている。 (3) 相模川に沿った中央地域のうち、相模原台地、愛甲台地は、河岸段丘で関東ローム層に覆われている。相模低地は相模川に沿って厚木から南に広がった沖積低地で、酒匂川沿いに発達する足柄平野とともに、沖積層からなっている。沖積層はこのほかに、鶴見川、境川その他県下の河川の流域や多摩川低地を形成している。また湘南の海岸に沿って、砂丘たい積物が幾すじかみられる。 (生命の星・地球博物館)