64 〔本書ができるまで〜作成の経緯〜〕 高齢者虐待防止部会 委員長 山田祐子 本書を作成するにあたって、2007年より県および市の職員の代表者で 組織する高齢者虐待防止部会において、マニュアルの内容の検討を開始しま した。 その後、施設職員の考え方や意見を聞くために、部会の代表者と家族会の 代表者及び施設職員で構成するワーキング委員会を立ち上げました。 このように、県民(特に高齢者および家族)、施設職員,行政のそれぞれの 立場から意見を集約し、検討できるような形でマニュアルの検討を行いまし た。 1 課題の整理 (1)既存調査等からの検討―国調査からの課題 国では「高齢者虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法 律」(以下、「高齢者虐待防止法」という。)第26 条の「調査研究」に基 づき、調査・研究が推進されてきました。その調査等から導きだされた課 題は、「法律に規定される『高齢者虐待』にあたる行為の判断が難しい」 という現場責任者や介護職員が圧倒的に多かったこと、施設側の通報への 抵抗感が大きいということでした。また、調査・研究からは、施設内で未 然防止を行っていく包括的虐待対応が不可欠であることが示唆されまし た。 以上のことから神奈川県では、1)養介護施設における高齢者虐待とは 何かの一定の判断基準を示す、2)高齢者虐待防止について、未然防止を 重点に置き、施設で活用できる取り組みの情報提供を行う内容としました。 (2)国が示す「高齢者虐待の捉え方」と対応が必要な範囲について 国はマニュアルや事例集で「高齢者虐待の捉え方」として、以下のよう に示しています。 ○高齢者虐待防止法の定義に収まらない行為について防止・対応の必 要がない、ということを示しているわけではない。 ○高齢者虐待は、広い意味では「高齢者が他者から不適切な扱いによ り権利利益を侵害される状態や生命・健康・生活が損なわれるよう な状態におかれること」と捉えることができる。 ○したがって、法の規定からは虐待にあたるかどうか判別しがたくと も、高齢者の権利・利益が侵害されたり、生命・健康・生活が損な われることが考えられる場合は、同様に防止・対応をはかっていく 必要があるといえる。 65 これにより高齢者虐待防止法の定義に加え、1)高齢者の権利・利益が 侵害されたり、2)生命・健康・生活が損なわれることが考えられる場合、 も含まれた広範囲な解釈となりました。 しかし、共通の判断の手がかりとなるような枠組みや行為の具体例は示 されておらず、そのため、行政職員と養介護施設従事者等がそれぞれの「経 験」や研究蓄積の少ない「専門知識」に個別性が高く、高度の専門性が必 要な虐待の判断が委ねられている現状があります。 そのため、判断基準のばらつきが虐待防止の取り組みに混乱や困難が生じ、 地域による格差が生じている可能性があります。 (3)神奈川県版高齢者虐待の判断基準の意味するもの 神奈川県が作成した判断基準が法的拘束力をもたなかったものだとし ても、神奈川県においては「判断の手がかり」としてもらい、施設職員の 高齢者虐待防止の取り組みに役立てていただくことにしました。 (4)判断基準の起点となる主体は誰か それでは,神奈川県において、誰が高齢者虐待の判断基準を決めるのか。 検討の結果、主体は神奈川県民であり被虐待者の当事者となりうる高齢者 とすることになりました。 「施設職員や委員会で決めた判断基準より、高齢者や家族のお気持ちで あるということならば、職員は真摯に深く受けとめるのでは」という施設 職員の委員の意見でした。しかし、それでは「やや一方的である」「客観 性が疑問」という課題がありました。特に、「介護崩壊と言われる今、対 応できない要求もある」等の意見もある中にあって施設職員に納得がいく 妥当性のある内容とするため、施設職員に対しては、虐待の判断基準に関 する意識についてお聞きすることにしました。また、日常の業務において 悩んでいること、困っていることを把握すること、そして神奈川県内の施 設が日々努力し工夫していることを発信していただき、その知恵を神奈川 県内の他の施設と共有していくこと、それを県行政がサポートする役割を 担うこととしました。 2 調査の実施 本書を作成するにあたって,3種類の調査を実施しました。 (1)養介護施設利用者(本人又は家族)調査 1)調査対象者:1000 名 @ ワーキング委員施設利用者・家族 66 A 身体拘束廃止推進モデル施設(特養、老健)利用者・家族 B 部会・ワーキング委員の管轄市町村の施設利用者・家族 C 認知症の人と家族の会 (本人又は家族) 2)調査期間:2008 年7 月 3)回収数(回収率):594 人(59.4%) (2)高齢者虐待防止に関する養介護施設従事者等調査について 1)調査対象機関:250施設 @ 介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム) A 介護老人保健施設 B 介護療養型医療施設 C 有料老人ホーム、養護老人ホーム、軽費老人ホーム、ケアハウス D 認知症高齢者グループホーム 2)調査対象者:1000 人 @ 管理者向け調査 〔1施設各1 名〕 A 養介護施設看護又は介護職員(リーダー・経験年数3年未満) 〔1施設各3名〕 3)調査期間:2008 年11 月 4)回収数(回収率):691 人(69.1%) (3)ヒアリング調査 1)調査対象 @ ワーキングメンバー等施設代表者等からの聞き取調査3施設 A 県職員による(2)のアンケート回答施設への電話によるイン タビュー B 調査期間:2009 年1 月〜3 月 3 神奈川県の養介護施設従事者等による高齢者虐待防止 の理念の形成に向けて (1)調査の結果からみる高齢者と家族の気持ちから見えてきたもの 「養介護施設利用者(本人又は家族)調査」において、以下の設問で、 判断基準の根拠となるデータを収集しました。 Q施設職員の対応で次のようなことを感じたことがありますか。(ご自 身以外の施設利用者に対しての事柄でも構いません。) ・「施設職員の対応で気になることがあった」 ・「施設職員の対応で悲しい・不快と感じることがあった」 67 ・「施設職員の対応で虐待されているのではないかと感じることがあ った」 判断基準を作る作業は、高齢者本人,家族から,意見をとった後、職 員にも意見を求め、その後、部会、ワーキング検討委員会の合同会議で、 検討し、とりまとめる予定でした。 1)「法令上の虐待」と高齢者および家族の願いとの関係 調査の結果、高齢者や家族の「気になること」「悲しい・不快と感じ ること」「虐待されているのではないか」という回答をみると、「気にな ること」「悲しい・不快と感じること」の回答の中には「高齢者虐待防 止法の定義をそのまま解釈した内容の虐待」(以下「法令上の虐待」と 記す)に 相当するものもみられた反面、「虐待されているのではない か」の回答の中には、「法令上の虐待」に相当するか判断に迷うものも 含まれていました。そしてその中にも、「法令上の虐待」に相当しない かもしれないが、研究者等によっては「虐待」と解釈されるものや、「ハ ラスメント」に該当し「人権侵害」と解釈されると思われる内容が含ま れていた。またやはり「法令上の虐待」には相当しないが、既に介護保 険施設等への行政の監査指導やその実地指導においての対象となり、施 設職員にとっては「してはならないこと」として対応すべき内容も含ま れていました。 調査の回答において、特に「気になること」「悲しい・不快と感じる こと」の記述には「法令上の虐待」には相当しないかもしれないが、特 に家族の強い心の声が込められていました。その中には、「法令上の虐 待」には相当しないかもしれないが行政の実地指導において指導対象と なるような内容もあれば、指導対象にならないが「高齢者ご本人が嫌が っていることなので気をつけてください」という口頭で注意を促す場合 のものもあり、幅がありました。しかしながら、少なくとも回答を読み 取る限り、高齢者と家族は、施設側が「法令上の虐待」だけ遵守してい ても、決して幸せではないことが浮かび上がってきました。 (2)高齢者を起点とする高齢者虐待と思われる判断基準とは それでは「高齢者ご本人のお気持ちを起点とし大切にする」方針の判 断基準とするにはどうしたら良いのでしょうか。 「国事例集」では、「不適切ケア」を底辺として「顕在化した虐待」と 連続して捉え、それらの間を「グレーゾーン」とする考え方を呈示して います(14ページ)。なお「不適切ケア」の「定義」は、「国事例集」 には明示されていません。「法令上の虐待」は、虐待の内容を線引きを していますが、「1)高齢者の権利・利益が侵害されたり、2)生命・ 健康・生活が損なわれることが考えられる場合」と「不適切ケア」をど のように捉えたら良いのでしょうか。 それらも考慮して委員で検討した結果、本書は虐待をしている施設の 68 「あぶり出し」が目的ではなく「未然防止」が主目的であるので、ここ では「法令上の虐待」や「国事例集」より一歩踏み込む判断基準を示す こととしました。そして、「高齢者やご家族が『気になる』『悲しい・不 快』『虐待』と感じるケア」を原則すべて防止の対象に含むことにしま した。 (3)論点整理〜神奈川県が目指す養介護施設従事者等による高齢者 虐待防止とは何か 神奈川県が目指す養介護施設従事者等による高齢者虐待の判断基準 は、以下に示す捉え方としました。 ◎「法令上の虐待」、「不適切なケア」、「適切なケア」、の3区分で示す ことにしました。 *「法令上の虐待」以外に「虐待」と解釈されるものも存在するが、こ こでは複雑になるので「3区分」としました。 ◎そして、目指す防止の対象は、@「法令上の虐待」、A「不適な切ケ ア」に加え、B「『適切なケア』でも合意形成不足からの誤解のある もの等」としました。それを図示したものが第2 章です。「ご本人や ご家族が不快に感じるケア」がそれに該当します。 ◎言い換えれば、@「法令上の虐待」、A「不適切なケア」、B「『適切 なケア』でも合意形成不足からの誤解のあるもの等は、全て職員にと っては、「してはいけないこと」として認識する、ということです。 4 本書の基本方針 本書の基本方針は以下のとおりです。 〔判断基準について〕 ○虐待の判断基準は高齢者本人の気持ちを起点として考える。 ○高齢者の尊厳の保持を重視する。 ○「法令上の虐待」と「国事例集」より一歩踏み込む ○「ここから“法令上の虐待”」という白黒をはっきりつけることを目 的としない。 ○「法令上の虐待」「不適切なケア」「適切なケアでも合意形成不足から の誤解のあるもの」を全て防止の対象とする。従って区分して記述し ない。(「断定できない虐待」の壁をなくした) ○「高齢者やご家族が『気になる』『悲しい・不快』『虐待』と感じるケ ア」を原則すべて防止の対象に含む ○高齢者や家族の文言を、あえて加工しないでそのまま列挙する。 ○虐待をしている施設の「あぶり出し」が目的ではなく未然防止が目的 である。 69 〔養介護施設従事者等による高齢者虐待防止について〕 ○包括的虐待対応として未然防止を重視する。 ○未然防止として介護の質の向上を重視する。 ○施設職員の悩み,困難を把握する。 ○県内の高齢者虐待防止やケアの取り組み、工夫について共有する。 ○組織の課題として捉え、組織として取り組む。 ○職員個人の資質に原因を求めるのではなく、組織のマネジメントの課 題として捉える。 〔行政について〕 ○行政の役割と課題を整理し、行政ができることは何かを考える ○未然防止を重視する。 ○行政は引き続き養介護施設と一体となって取り組み、常にサポーティ ブであろうとする。 ○行政は,本書の理念に沿った,養介護施設への支援を行い,理念を具 現化させる。 ○本書の効果で通報件数が増えると予測されるが、掘り起こし時期と受 け止める。 5 高齢者虐待防止法を超えて 〜本書が「ランドマーク(道しるべ)」となることを願う〜 合同部会としては、何らかの判断基準の手がかりとなるものを作ろうと, 高齢者本人,家族から,意見をとり,施設職員にも意見を求めたところで すが,とりまとめ作業が大変困難でした。しかし「高齢者本人のお気持ち を起点とし大切にする」方針については,神奈川県の誇るべき理念であり、 本書の要であると思っています。 高齢者や家族の心の声にも耳を傾け、利用者も職員も笑顔があふれる、 ぬくもりのあるケアを推進していくための「道しるべ」として活用いただ ければ、と思います。 神奈川県は,高齢者や家族の心の声を聞くことによって,県民がいつま でも幸せに暮らしていくためには,高齢者虐待防止法を超えなければなら ないと決意しました。そして今回,一歩踏み込んだ理念を掲げることにし ました。 神奈川県の養介護施設は、困難な時代にあっても志高く、理想のケアを 目指して広い海で航海を続ける船にたとえられるでしょう。本書がそのよ うな多くの船の道しるべ、すなわち「ランドマーク」となれば幸いです。 なお本書は、これで完結するのではなく、神奈川県民の皆様、施設職員 の皆様の手で、今後更にバージョンアップをされていくものです。 70 〔引用文献〕 1 厚生労働省老健局(2006)『市町村・都道府県における高齢者虐待への 対応と養護者支援について平成18 年3 月』 2 認知症介護研究・研修仙台センター(2007)『平成18 年度施設事業所 における高齢者虐待防止に関する調査研究事業』平成18 年度厚生労働 省: 老人保健事業推進費等補助金(老人保健健康増進事業分)事業 3 認知症介護研究・研修仙台センター(2008)『高齢者虐待を考える 養 介護施設従事者等による高齢者虐待防止のための事例集』