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生涯学習をとおして、人生の転機や新たな発見を得ることがあります。生涯学習は想像しているより難しいものではないと知ることで、自らの学びのきっかけが見つかるかもしれません。

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養老 孟司氏インタビュー
入力と出力の繰り返し、
それが「学習」

「唯脳論」の提唱者でも知られ、人間の心理や社会現象を脳科学や解剖学などの知識を交えながら独自の視点で分析し、常に社会に刺激を与え続けている養老孟司氏。氏が考える「学ぶ」ということの根本について、お話を伺いました。

生涯学習と言われるようになったのは、今の時代が平和な証拠かも

人生100年の時代において、養老氏が考える「学び」について教えていただけますでしょうか。

生きている、ということが学んでいるということです。子どもは這って、立ち上がり、そして歩きますが、何度も転びながら失敗を繰り返していくことで頭の中に歩くためのソフトが生まれてきます。毎日が同じように見えても、実は常に状況は違う。地面には凹凸があり、雨の日や雪の日では状況も変わる。それに合わせて努力して転ばないように歩くことで、自然に歩けるようになるんです。失敗して、どうやったらうまくいくかを無意識に考え、前に進む。一歩進めば新しい風景が見えてきますが、絶えず変化に対応して適応していくことで身についてくるのです。

学習とは、根本的に「身につけること」です。身につかないものは使えません。自分が行動したことが体に入ってきて、それが行動で出て行く。行動したことがまた身に入っていくことを絶えず繰り返す、その「入力」「出力」の繰り返しが学習です。学習するということが一番よくわかるのは特殊な条件下に置かれた時です。その際たる状況は災害時でしょう。水道が止まり、電気が止まり、食べるものがない。そんな時、どうやって対処するか、どうやって生きていくかを、人は真面目に学習します。

知人のボーイスカウトのリーダーから、最近の子どもたちは焚き火をしても薪をくべることすらおぼつかないという話を聞きました。火を燃やし続ける方法を知らないそうです。僕が子供の頃は、ガスコンロのような便利なものはなく、薪割りは僕の担当でした。薪割りは簡単なことではなく、どうやったらうまく割れるか試し、燃える木と燃えにくい木があることや、どう燃やすと効率が良いかなどを体験していきました。自ら出力して、失敗したことをまた体に入力して、それをまた出力する、その繰り返しで自然に身についていくことが学習です。生涯学習と言われるようになったのは、もしかしたら今の時代が平和な証拠かもしれませんね。

養老氏は幼少時代、どんな子どもでしたか?

小学生の頃は、教室ではだいたい外を見てましたね(笑)。外を見ていないときは、学校の机に蓋があって、その蓋を持ち上げて机の中で本を読んでいました。学習は自分でするものだということが身についていたのでしょう。

数学の勉強を例にとるとわかりやすいのですが、問題は自分で考えて解き方を考えないと意味がない。一回自分で解けた問題は、いくつになっても解けるのです。数学は、誰にでもわかる当たり前のものです。世界中どこの国でも教科書には同じことが書いてあるでしょ。でも学校では解き方を教えて問題を解かせる。一定の時間に全員に同じことを教え込まなければならないから仕方がないのですが、解き方を教えてもらってしまうと、問題が自分で解けなくなってしまうんです。教室で静かに座って先生の話を聞いていれば良いというのが今の教育。つまり、受け身で入力することが学習だと思ってしまっている。入力したものを出力できていないことは問題だと感じています。

AIという新しい技術が生まれていますが、学習経験を積み重ねることの価値が変わってきたりするのでしょうか。

根本的には変わらないと思います。機械が学習するのと人間が学習するのとでは違いますから。機械がいくら利口になっても、人間が利口になるわけじゃない。いくら車が早く上手に走れても、人間が早く走るわけではないし、その必要もないことと同じです。私自身はAIに全く懸念はありません。非常に便利なものなのでむしろ活用していきたい。ただ、学習の浅い子どもたちが使うことは勧めません。子どもがAIで「何を学ぶのか」というところがいちばんの問題です。これは社会の問題でしょう。

AIで調べることは「入力」です。「出力」は、指一本、スマホひとつでできてしまう。つまり、出力に体が関与しなくなってしまっているんです。入力して出力されたものがまた自分の中に入力されて、出力されるものが変わってくる。今までならそんな風に自分が行動した「出力」が直接外の世界と関わり合って「入力」されていたのに、指一本で間接的に行われている。これは脳みそが相当サボってるということ。出力には体を使わないといけないんです。

今の若い人たちはスマホを上手に操ります。僕なんかとてもじゃないけど敵わない。でももし、スマホがなくなったらどうでしょう。なくなることは十分ありえます。だからその前に体を育てなくてはならないのですが、今はそれをほとんど忘れています。脳みそは別物だと思っている。でも、「身につく」というのは、体全体につくことなのです。脳みそも体のうちです。自分で体験して体を動かして学ぶことが重要なのではないでしょうか。

集団で行う学びと個人学習はどう関連づければ良いのでしょう。

学習というものは集団ではできません。自分で学ばなければならないのです。学校などではよく、「みんなで考えましょう」と言いますが、考えるということは自分の頭の中で行うしかない。集団の学びは、個々が考えた結果を持ち寄り、話し合う場です。

一人ひとりの考えを出力する、一種の調整の場が集団での学びです。自分ひとりで考えると、どうしてもいろいろなところに見落としが生まれ、見方が偏ってしまう。だから大勢で集まって話し合うのは結構大事なことです。特に、生涯学習の場は、学校や会社のような利害関係が少ないため、自由に発言し、人の話を聞くことができる良い環境でしょう。

人の話を聞いても、自分の意見と違えば理解するのは難しいことです。そんなとき一番困るのは自分の意見を変えないことです。あなたも思い当たりませんか?(笑)。自分の意見と違う意見に出くわしたら、相手はそう思っている、ということを了解するしかない。考えは、あるところまで詰めると変えられないですし、人の考えを変えるのは無理なことです。さらに人の考えを聞いて自分が変わるには、心に余裕が必要です。戦争の最中では「やめよう」と言っても止めることはできない。つまりは、平和なところでみんなで話し合っているときに我を通す必要はないのだと思います。

学ぶというのは生きているということ

生涯学習に興味のある方々へのメッセージをお願いします。

学ぶというのは生きているということで、生きていると否応なしに学んでいきます。学びたいと思うのは、生きなければならないと感じているからでしょう。生涯学習として学ぶなら、やりたいことをやればいいと思います。学び始めても継続できない人も多いそうですが、そんな人は少し自分のことを考えてみてはどうでしょう。今の自分を中心に考えることで、何かが変わるかもしれません。

今の人たちは「自分はこう」と限りすぎているように思います。田んぼに稲が実るでしょ、その米を食べれば、それが自分の体になる。だから田んぼは将来の自分でもあるんです。魚を食べればそれも体になる。だから海も自分。そう考えれば、自分を「こうだ!」と決めつけて考えるのはつまらないことです。自分が変わり続けるためにも、自分を固定せずに学び続けることが大切です。

自分のことを考える、とは、自分を見つめるのではなく、素直でいればいいのです。学びは、掘っても掘っても際限がない。よく好きな言葉を聞かれるのですが、イタリア人の言葉で、「どん底に落ちたら…」というのがあって、日本ではどん底に落ちたら「もうこれ以上落ちないから云々」と言いますが、イタリアでは「どん底に落ちたら、掘れ」と言うのです。どん底というけれど、まだ奥に底があるよ、という発想が面白い!

既成概念で考えない。あまりガチガチにならないで。一歩前進すれば、見える風景が広がりますよ。

プロフィール

養老 孟司(ようろう たけし)氏

1937年(昭和12年)11月11日、神奈川県鎌倉市生まれ
ベストセラーとなった『バカの壁』『死の壁』『唯脳論』など著作多数。趣味の域をはるかに超えた昆虫採集は有名で、神奈川県箱根の別荘には約10万点の昆虫採集標本を所蔵する。