かながわスポーツコンベンション報告書H20「世界への挑戦」

掲載日:2018年9月4日

「世界への挑戦」

掲載日:2015年4月1日

平成20年度かながわスポーツコンベンション報告書

開催日:平成20年10月4日(土曜日)

会場:神奈川県立体育センター

主催:神奈川県教育委員会

 

目次

開催概要

シンポジウム 

趣旨説明 三好 智弘

 発表1 「ピンチはチャンス」 具志堅 幸司
 発表2 「水泳を始めたきっかけと北京パラリンピックまで」「オリンピックとパラリンピックの違い」 成田 真由美
 発表3 「世界選手権を通して得たもの」 山本 聖子
 発表4 「北京オリンピックへの取り組みや経験したことについて」 齋藤 春香

パネルディスカッション

メッセージ

 


 

平成20年度かながわスポーツコンベンション開催概要

1 全体のテーマ

「世界への挑戦」

2 開催日

平成20年10月4日(土曜日)

3 会場

県立体育センター

〒251-0871 藤沢市善行7-1-2

4 主催

神奈川県教育委員会

5 内容

シンポジウム

テーマ 「世界への挑戦」

コーディネーター

三好 智弘 (かながわアスリートネットワーク:湘南工科大学附属高等学校教諭)

パネリスト

発表1 「ピンチはチャンス」

 具志堅 幸司 (かながわアスリートネットワーク:日本体育大学教授)

発表2 「水泳を始めたきっかけと北京パラリンピックまで」 「オリンピックとパラリンピックの違い」

 成田 真由美 (かながわアスリートネットワーク:株式会社日本テレビ放送網)

発表3 「世界選手権を通して得たもの」

 山本 聖子 (かながわアスリートネットワーク:株式会社スポーツビズ)

発表4 「北京オリンピックへの取り組みや経験したことについて」

 齋藤 春香 (かながわアスリートネットワーク:株式会社日立製作所)

パネルディスカッション 

メッセージ 


 

シンポジウム

三好

皆さんこんにちは。本日は、かながわスポーツコンベンションにご参加いただきまして、誠にありがとうございます。これだけ素敵なパネリストの皆様がいらしていますので、今日はいい話が伺えるのではないかと思います。コーディネーターを務めさせていただきます、三好です。よろしくお願いします。

コーディネーター・三好

この場に、私を含め5人のかながわアスリートネットワークの皆様がいらっしゃいますが、かながわアスリートネットワークは、スポーツの世界で活躍した神奈川にゆかりのある選手、コーチの方々が結集をして、神奈川のスポーツの発展、また皆様方のスポーツをするきっかけづくりに寄与または貢献していきたいと考えております。

今回のシンポジウムですが、「世界への挑戦」をテーマとし、パネリストの皆さんに、スポーツを通して得ることができた貴重な体験談を会場の皆様方に伝えていただくことにより、「スポーツの持つ魅力」を共有し、改めて「スポーツの持つ可能性」について、皆さんとともに考えていきたいと思っております。

パネリストの皆さんは、自分自身の限界に挑戦していくために、血の滲むような努力とそれを支えるスタッフの献身的なサポートや周囲の人々の温かい応援や理解が、いかに大切なものであるか、身をもって感じていらっしゃいます。そういった面からも、大変興味深いお話が伺えるのではないでしょうか。

このシンポジウムを機会に、神奈川のあらゆる県民の方々がスポーツに親しむきっかけづくりとして、またこの会場にいらっしゃるスポーツ指導者やスポーツ関係の方々のこれからの活動の糧となるような、豊かなスポーツライフの可能性について探ってみたいと考えております。

それでは、シンポジウムの進行でございますが、パネリストの皆さんにはテーマについて、お一人10分間ぐらいの発言をいただきます。その後、お互いの発言内容をもとにディスカッションをしていただきます。

それでは、さっそくパネリストの皆さんにお話をしていただきます。まず始めに、体操の具志堅さんよりよろしくお願いいたします。

 

具志堅

皆さんこんにちは具志堅です。トップバッターを務めさせていただきます。テーマは「世界への挑戦」とありますが、私は17年間、体操を続けて来ました。

そして、現在全日本男子強化本部長ということで、今回の北京オリンピックには男子監督として行ってまいりました。今日は教え子の水鳥寿思選手が世界に向けて挑戦していった話を報告させてもらいたいと思っています。

水鳥選手は静岡県の生まれでお父さんが水鳥体操館の指導者でした。五男一女の6人きょうだいの3番目です。水鳥選手は非常に柔軟性がなく、関節も硬くお父さんは指導者のプロですから、そんな水鳥選手を見て、我が息子にこういう言葉を送っています。「寿思、おまえは体操で大成する素質がない。おそらく世界選手権、オリンピックに行けない選手だからお父さんは面倒をみない」。我が息子を見捨てる言葉を投げかけました。普通でしたらそこでしょんぼりしてやけくそになってしまうところ、彼はそれをバネにしていきました。

中学校を卒業後、水鳥選手は岡山県の関西高校に進学しました。そして関西高校で藤原先生のもとで3年間、基礎をみっちり学び、トップレベルではなかったが、頑張ってインターハイでそこそこの成績を取って、日本体育大学に進学しました。

私は彼を「鞍馬、鉄棒は9.65点くらいを取るが、不得意の吊り輪はどうしても7点台で8点に乗らず、好きな種目と不得意な種目が両極端な選手」として預かりました。私は彼の得意な種目にひかれて、チームのメンバー、レギュラー選手として1年生から試合に使いました。水鳥選手に「不得意な種目は仕方がない一生懸命やればいい。それより得意なものを伸ばしていこうよ」と声をかけました。鞍馬、鉄棒は9.5~9.6点を取りました。見事、期待に応えてくれまして、インカレや大学の一番大きい大会で優勝することが出来ました。

大学1年生の時に全日本選手権が富山県でありまして、彼は跳馬で「アカピアン」という技の着地で失敗しました。右足の大腿骨を骨折しまして、富山県で約3ヶ月間入院しました。その時、彼は体操をやめようかと一瞬思ったそうです。ところが私は彼の良いところをもっともっと伸ばしてあげたい。ここで終わるような選手ではないという思いがあったので「ピンチはチャンス」だから、私自身も現役時代に怪我をして、その時に基本的な体力をつけた事によって、不得意なものが得意になったり、得意なものがもっともっと得意になり、得点をとれる経験をしていましたから、彼にそのことを伝え、怪我から回復するまで三ヶ月間一緒に過ごしました。彼は一生懸命に筋力トレーニングに励み、見事に立ち直っていきました。これが2回目の試練でした。お父さんから見放された1回目の試練、2回目の試練は全日本選手権での怪我、それを彼は克服しました。

パネリスト・具志堅

大学3年生になります。日本体育大学の体育館が火災で燃えてしまいました。学校開放で体育館を貸し出していたら小さい子供がライターで遊んでいて、ウレタンマットに火がついて、体育館が瞬く間に燃えてしまいました。幸い怪我人はいませんでした。ところが、私達の練習する場がありません。練習する場がない現状で、どうすれば選手を鍛えていけるのかということで悩み、今度は私が落ち込んでいきました。オリンピックを目指して行く選手や日本代表の選手を預かっていましたので、練習する場がないということほどつらい事はなかったです。「明日から練習場所を考えるから、1日だけ練習を休ませてくれ」と頼んでマネジメントに徹しました。今乗っている車も、その時に買い替えた中古の車です。選手を出来るだけ多く乗せて、練習場所に連れて行くことに努力しました。器具が整い安全面の確保ができている一番良い条件のところへ、レギュラー選手を連れて行くわけですが、片道50kmの練習場所に行くだけで3時間、混んでいると4時間、練習は2時間しか出来ません。6時間位練習時間としているなか、その大半は移動に費やしました。私は多分競技力が落ちるだろうと思っていました。ところが逆でした。練習する時間が短いと遊びがなくなりました。以前より技術が向上していきました。私はびっくりしました。水鳥選手が教えてくれました。「先生が運転している車のなかで私達は一回も寝たことがないのですよ。行きの車の中で、これからの練習のことを、一生懸命考えているのです。」練習時間が2時間しかありませんので、体育館に着くと直ぐにウオーミングアップをして、練習が終わる夜9時前には出なければいけません。帰りは1時間半くらいで帰ります。今度は帰りの1時間半の中で、どんな練習をしたかを反省していたのです。

世界に挑戦する時というのは「考える力」、「思う力」、「やったことを振り返る力」が大切であり、こうして課題を解決し、勉強していくことであるということが、実は私はわかりませんでした。彼がオリンピックに行った時に始めて、「先生、あの車の中で私達、色々な事を学んだのですよ」と話してくれました。まさしく今回のテーマである世界への挑戦をしていくためには、「ピンチをチャンス」に変えていくことが大切です。この後、皆様もお話しされると思いますが、「積極的」、「否定しない」、「肯定的」そういう捉え方が出来る人が、おそらく強くなるのではないかと思います。

彼が大学4年生の時、静岡県で全日本選手権がありました。膝を怪我しまして、もう立ち直れないだろうと思いました。1年生の時に大腿骨骨折、3年生の時に体育館が火災、大学4年生の時は膝の内側靱帯、外側靱帯、十字靱帯の全てを切断してしまった。そんな中でも彼は気持ちを大事にしながら「出来る事は何だろう」、「やらなければいけない事は何だろう」と考えながら、出来る事を一枚、一枚薄い紙を積み上げて行くように練習をしていきました。

4年前のアテネオリンピックでは28年振りの団体金メダルに貢献しました。その時の吊り輪は9.65点でした。何年か前7点台の選手が9.65点まで得点を稼げる選手になりました。「努力するということはこういう事だ」と彼らの姿勢から一番学んだのは私でした。あきらめたらダメなのだということを彼ら選手から教わりました。

火災の時の選手が日本の体操を支えてくれました。中瀬選手も火災にあった選手でしたし、2年前の世界選手権、ユニバーシアードで活躍した桑原俊選手、森赳人選手も日体大が火災にあった時の選手です。日体大で練習出来なかった人達が日本の体操を支えてくれました。「本当にありがたいな、あきらめたらダメなのだ」ということを彼らから学びました。

三好

ありがとうございました。

我々は良い環境を求めて、そのよい環境が人を育てることがあると思いがちです。逆境の中でそれをどうチャンスに変えていくのか。具志堅さんが選手たちを引っ張っていく力が一番大きいわけですが、それに選手が応えて、考えて、イメージをふくらませていった結果ではないかと感じました。

続きまして、水泳の成田さんよりお願いします。

成田

ご紹介いただきました成田真由美です。9月19日北京パラリンピックが終わって帰国をして来ました。正直にいって、まだ、浦島太郎状態です。

今回、メダルにとどきませんでした。今まで金メダルを取るための練習をしてきました。直前になって北京に行ってからクラスを変えられ障害が一つ軽いクラスで泳ぐ結果となりました。飛び込む選手もいれば、キックする選手もいて、その中で3種目を泳いで全て5位という結果になりました。悔いはないのですが、くやしい思いは正直あります。

日本は抗議してくれたのですが、その抗議すら国際パラリンピック委員会は受け入れてくれませんでした。どうしたらいいか、このくやしさをどうしたらいいのか。私は水泳にこのくやしさをぶつけなければいけないと思っています。当然水泳をやめる理由がないので、今日も体育センターのプールで泳いで帰ろうかなと思っているところです。

「成田さん、昔から泳げたのですよね」とよくいわれます。でも実は泳げなかったのです。かなづちでした。小学校の6年間に学校のプールに入ったのは実は1回だけでした。それも、卒業アルバムの撮影がプールであるからという事で入りました。それ以外は、全部お腹が痛いといって、仮病を持ち出し見学をしていました。私は水が嫌いで怖かったのです。

そんな私がどうして水泳を始めたかというと、私は13歳の時に病気で足が麻痺して、それから色々なスポーツを始めました。障害者が使えるスポーツセンターで陸上の練習をしていた時に、障害のある人から「成田さん25m泳げないかしら、実はリレーのメンバーが一人足らないのよ」といわれたのがきっかけでした。当然、泳げない私は「すみません、泳げません」と断りました。「その大会はどこであるのですか」と聞きました。そうしたら「仙台であるのよ」といわれ、「えっ仙台に私、行けるのですか」「もちろんそうよ」といわれました。仙台に行ったら色々な美味しいものが食べられると思いオッケーをしてしまいました。

1ヶ月間練習して、どんどん泳げるようになって仙台で開かれた大会に参加をしたら、なんと個人種目の2種目で大会新記録、金メダルをもらえました。ものすごく驚きました。一番自分が驚いたと思います。歩ける頃に出来なかった水泳でまさか自分が金メダル。その帰り道、今度は居眠り運転の車に追突事故をされてしまいました。意識不明のまま病院に運ばれ、今度は手にも障害が増えてしまいました。右手はしびれたままで、左手の小指・薬指・中指の3本が開かなくなってしまいました。私の泳ぎを良く見てもらうと右手はパーですが左手はグーのままで泳いでいます。でも、その時の金メダルとその事故がまた、さらに私に拍車をかけて、アトランタのパラリンピックに出てみたいと真剣に思うようになりました。

パネリスト・成田

障害者が使えるスポーツセンターは、神奈川県の中では新横浜しかありません。もっともっと増えたらいいと思うのですが、それが現状です。確かにそういうスポーツセンターに行くと、同じ様な障害のある人と楽しく泳ぐ事が出来ます。でも、競って泳ぐ競泳はできないと私は思いました。そして、家の近くにある民間のスイミングスクールに電話をしました。

電話で入会を希望するときに、「車椅子です」と明るくいってもだめでした。結果的に6件断られました。「何で車椅子に乗っていって、泳ぐ必要があるのですか」とか「他を当たって下さい」とか色々な事をいわれました。電話をガチャンと切られたこともありました。でも、そこで自分は負けたくなかったのです。

絶対私を受け入れてくれる人がいると信じて7件目、横浜市青葉区内にある横浜サクラスイミングスクールのコーチが私の事を受け入れてくれました。私は自分の障害のこと、病気のこと全部いいました。良かったのは私が水泳に対して全くの素人であった事でした。もし何か知識があったら、コーチにいわれたことに対して、反感をもったかも知れません。でも、全くわからなかったのでコーチのいう事を100%信じて練習をしました。

アトランタに出場して、その次のシドニー大会の直前にお腹の手術をして、オリンピックに臨みました。アテネ前は2年近く入院して、どうにかしてアテネに臨みました。そして、今回は股関節の手術をして、1年8ヶ月も入院しました。ちょうど去年の今頃が3回目の股関節の手術をした時です。退院した10日後にワシントンの大会に出て、北京の大会の標準記録を切る事が出来ました。大会までの時間は短かったのですが、北京オリンピックに出たいという目標があったから諦めないで、ここまで来られたと思っています。諦める事は簡単だと思います。簡単に諦められる夢は目標ではありません。「まだ泳ぐの?」とよくいわれます。でも、今の私にはやめる理由がありません。泳ぎたいから、泳ぐ事が好きだから38歳といわれても、年齢は自分の中では気になってはいません。出来ればロンドンまで泳ぎたいという気持ちはあります。理不尽なクラス分けの中で泳ぐ事しか出来ない。それでも自分は、目標を持ちながら続けていきたいと思っています。人から「金メダリストだね」と評価される事があります。でも、私は結果だけで評価されたくありません。結果ではなくその過程を自慢したいと思います。そのオリンピックまでの4年間の間の部分、日々の部分を皆さんに一番知ってもらいたいです。

13歳で病気と障害を与えてもらって、13年後の26歳の誕生日をアトランタの選手村で迎える事が出来ました。そして、来年39歳になりますけど本当に色々な事がありました。確かに足が動かなくなったとか、手が不自由になったとかそれは実際のことですが、でも、私は失ったもの以上に得た物の方がたくさんあり、いっぱいありすぎて重たいと思っています。それらを秤にかける事は出来ないかも知れませんが、私は絶対に得た物の方が大きくて、いっぱいあって、重たいと思っています。そして、何よりも大嫌いな水泳が大好きになり、パラリンピックで世界に行く事が出来ました。

障害があったから、たくさんの人達と出会える事ができました。私は本当にすばらしい人生を送っていると思います。車椅子だからこそたくさんの人から声を掛けてもらえます。1日に「ありがとうございます」「すみません」「ありがとうございます」の言葉を多くかけられるようになったのも、私が車椅子の生活になったからだと考えています。

実は私、明日ウーマンズという女性だけのマスターズの大会に参加してきます。35歳から39歳までの人達と一緒に泳いできます。車椅子でも泳げるということや障害者という前に一人の人間だという事を知ってもらいたいです。多分、明日は同じ年齢区分で50m自由形に30人~40人の参加者がいると思います。私は絶対にビリになりたくないです。ブービー賞を狙いたいです。先月も試合に出ましたが19人出場していました。同じ種目に参加して、私は絶対18番になりたいと思って、8人一緒に泳いで私は7番になれました。これでブービー確定したと思ったら、実はその8位になった人がフライングして失格になってしまい、結局ビリになってしまいました。

自分が出て行く事でたくさんの人に見てもらいたい。車椅子だからこそ、隠さないでありのままの私を見てもらいたい。そして、見てもらった時に車椅子の人がこうやって生活をしているとか、障害者スポーツに対して多くの県民の皆様に理解をしてもらって、私達のスポーツを多くの人達に見てもらいたいと思っています。障害者で車椅子に乗っていますが、障害者という前に一人の人間であって、足が動かないだけで、水泳が好きで泳ぎ続けている人がいるという事や、皆さんが思うほど決してかわいそうな人ではなくて、こんなに車椅子でエンジョイしている人がいるということを理解していただきたいと思っています。

パネリスト

多分、成田真由美の挑戦はまだまだ続くと思いますが、生きているからこその挑戦だと思います。人間には、必ず終わりが死という形で来るけどでも、私は生きていく以上、挑戦し続けていきたいと思っています。

本当に個人的な事ですが、来月の始めに手術をします。それは泳ぎ続けるためでもあります。手術して治るということは幸せなことです。手術をしても治らない難病をかかえている多くの人たちに向けて、自分が動く事で何かメッセージを伝えていきたいなと思っています。

三好

ありがとうございます。4大会パラリンピックを経験し、今回障害のクラスを一つ変更させられて、精神的にもかなり辛いところがあったと思いますが、成田さんのモチベーションの保ち方はどんな方法なのでしょうか。

成田

北京に入って2日目にクラスを変えられてしまって、すごくくやしい思いをして、監督の前で大泣きをしてしまいました。泣いてもクラスは変わらないので、自分の気持ちの中で切り替えていくことが必要だなと思いました。自分の気持ちを切り替えれば、周りに迷惑をかけないし、女子キャプテンとしてみんなを引っ張っていかなければいけない役割もあると思いました。とにかく、この大会は泳げるだけで幸せだなと思うようにしました。去年の今頃は寝たきりだったことを思って、気持ちを切り替えました。皆さんが思うほど強くはないですけれども、ただ単純に感謝をしたいという気持ちです。水泳をさせてくれた仲間や私を引き受けてくれたコーチ、今を支えてくれている家族のおかげで、今私はここに生きているという実感が持てていることで前向きになれています。今回のクラス分けは納得いかないが、いつまでもクラス分けのことをいっていても自分は進歩しないので、自分は水泳を続けていくことが大切だと思っています。

三好

私も水泳ですが、障害があっても挑戦していく姿に、同じスイマーとして感動します。成田さんの話の中に、「障害を与えてもらった」なんて一言があったのですけども、障害を神から与えられたものとして、自分の中で吸収していることに感激しています。すごいアスリートだなと尊敬しています。

続きまして、レスリングの山本さんよりお願いします。

山本

私は5歳の頃からレスリングを始めました。きっかけは、父がミュンヘンオリンピックのレスリング代表の選手だったことでした。私のきょうだいは一番上に姉の美憂がいて、二番目に兄の山本徳郁がいます。

男の子にレスリングをさせたくて、父は兄を知り合いのレスリング道場に通わせることになりました。私の家族は誰か一人が通うのであれば家族みんなが付いて行くという家族で、私もいつも付いて行きました。付いて行くだけだとつまらないので姉も私もレスリングを始めました。5歳から初めて小学校のある時期まで本当に弱くて練習もしない、ただ友達に会うのが楽しくて道場に通っていました。マット運動とか最後にやるハンカチ落としをやるだけがほとんどでした。私は結構大きかったのですが、試合に出ても1回戦負けでした。でも、試合に負けても3人しかいないから3位でメダルを貰ったりとか、いつもそういう感じでした。

それを見かねた父が、きっと私はもうレスリングをやりたくないのだろうと思ったらしく「もう、辞めてもいいよ」といいました。それが小学校4年生の時でした。その時、初めて「これはヤバイ辞めさせられてしまう」と思い、次の日からけっこう真剣に、男の子ともスパーリングをするし、自分よりも大きい子ともスパーリングをするようになりました。でも、練習しても中学生とか同じ世代ではチャンピオンになれましたが、全日本とか、大人の人達の中に入ると全然勝てなくて・・・。そのころ、一番上の姉が世界チャンピオンでしたので「美憂の妹、美憂の妹」といつもいわれていました。でも、弱くて負けて歓声があがったりしても無視して・・・。今思うといやな気分になっても当たり前だと思いますが、全然気にしなくて来られたのが本当に幸せだったと思います。

パネリスト・山本

中学生の頃はレスリングというのはなかなか部活動がなくて、私は女子校でしたのでさらにありませんでした。父が勤めている日体大の道場で、日体大のレスリング部の人が練習して、それが終わってから私達が使わせて頂いていました。その道場では、いつも長時間練習出来ないので、短時間で集中してやる期間が続きました。

高校生になってくると全日本で少し勝ち始めて、3位になったりしましたがなかなか優勝する事が出来ませんでした。レスリングはバックに回ると1ポイント、相手を返すと1ポイント、背中を付けるとフォール勝ちというルールです。1ポイントをとるのもなかなか難しくて、地道な点数の積み重ね、大きな点数の差は開かず、覚えているのが高校3年の春の大会の決勝の時に、11対11で、ラスト1点を取れば勝てるという時です。いつもの自分の弱い心が出て来て、「もうこれで早く終わらせたい。あと1点を取って早く終わらせたい」と思ってしまいました。仕掛けたのはいいですが本当に訳がわからず、何を勘違いしたのかタックルして足を持っているのに投げてしまいました。足を一本背負いみたいに投げて、それが滑って逆に1点を取られて負けてしまいました。その時はすごくくやしかったです。くやしくて泣きました。しかし、次に絶対に負けるものかとは、なかなか思えませんでした。

その年の世界選手権の代表は、その時私に勝った相手でした。その世界選手権に私の姉も出場したので付いて行きました。ポーランドでのことでした。いつもはサポート役や練習で皆の打ち込みを受けたり雑用もしていましたが、世界選手権の場で活躍している皆を見てすごいなと思いました。

そして自分の階級の試合が始まって、日本の選手が一回戦、二回戦と勝ち進み、決勝で勝ってすごく嬉しかったんです。「何で自分は頑張らなかったのだろう」、「何であんな気持ちで疲れたとか、しんどいとかで諦めてしまうのか」それが凄くくやしくて、その世界選手権が終わってからは猛練習をしました。今まで練習は頑張っていましたが、自分が本当に世界選手権で勝ちたいと思いだした時の練習とそれまでの練習とは違っていました。日体大のトレーニング場も使用させてもらえたので、いつも練習の前に1時間半くらい自分で走ってウエイトして、綱があったので自分で綱に昇っていました。

その年の世界選手権は9月にあったのですが、12月に全日本選手権のオープントーナメントがあり、その試合で優勝する事が出来ました。でも、私が高校3年生の時、負けた相手はその試合に参加していませんでした。なぜか勝っても全然、嬉しくなかったです。

今度は3月にある大会で、相手が参加するその試合で勝ちたいと思って、一生懸命、練習しました。高校3年の最後の3月の大会でその相手に勝つ事が出来ました。その相手に勝って始めて自分が世界選手権の代表になれました。ですから世界選手権で怖いとか、躊躇とかは、全くありませんでした。いつも世界選手権でコーチをしている人が、私のパートナーとして働いてくれていました。私は「次に私がマットに入るのだ」と思うとわくわくしました。ちょうどその時期、母が癌で入院しており、私が世界選手権に出発する日も入院していました。まだ子どもだった事もあり母がそんなに重い病気とは思っていなかったので、癌も治るだろうなという感覚でいました。でも抗がん剤ですごく苦しんでいる姿を見て、どこかで母の事を思いながら試合をしていたこともありました。その世界選手権の決勝は、競った試合になり、あともう1点取れば自分が勝つという状況になりました。その時また、自分の中に「疲れてしまった」という思いが出て来てしまいました。それまでは絶対「自分は妥協しないし弱気にならない」とずっと心にいい聞かせていたのです。その時にすごいタイミングで応援団の浜口京子さんのお母さんが「聖子、ママも頑張っているよ」と声を掛けてくれたのです。自分がしんどいと思うより、薬と戦っているママの方が一番しんどいと思い、ここで耐えなければと頑張っていたら相手が倒れていました。それでも自分が勝てたかわからず、これは誰のポイントだろうと思いましたが、得点板を見て自分のポイントとわかり、自分がチャンピオンになったと思った瞬間ガッツポーズが出来ました。

私にとって、一番思い出に残ったのがこの一回目の世界選手権でした。自分の弱い気持ちを変える事が出来る事をその時、始めて知りました。

三好

ありがとうございます。この中で唯一の格闘技ということで、お話の中で恐怖とか、怖さとかがなかったというお話でしたが、私は、お兄さんはどんな気持ちで戦うのかなと思って試合を見ています。わくわく感があると伺ったのですが、どうなのでしょうか。

山本

レスリングは、パンチとかキックとか決め技はないので、それよりは安全なのですけども、勝つことへのわくわく感であったり、相手を倒すことへのわくわく感があったりします。自分が一番高い所へのぼって日の丸を掲げるという気持ちが強いです。

シンポジウム

三好

わかる気がします。ここにいらっしゃるパネリストの皆さんも戦ってきて、一番高いところへ上がった経験があると思うのですが、イメージトレーニングというものを我々はすごく大切にしていて、負けることを一切考えないという練習をしていませんか。勝つイメージだけで練習していますよね。苦しい練習でも勝つというイメージで練習していると恐怖とか怖いとかが消えて、わくわく感だけで試合に臨めるのではないかと思います。ありがとうございました。

続いて、ソフトボールの齋藤さんお願いします。

齋藤

北京オリンピックから1ヶ月と少し経ちました。やっと、実感がわいてきた感じがします。本当に、皆さんに、神奈川県の県民の皆様を含め、全国の皆さんにいつも声援をいただいて、それが励みになって金メダルという結果になりました。

あの時、始めて決勝で嬉し涙を流しました。今、山本さんがお話されたように、日の丸を揚げた時、国歌を歌いながらボロボロ号泣しました。今までは成し得る事が出来なかった悔しさがありましたが、達成出来た事は本当に恩返しが出来たなという思いです。

また、昨日は某テレビ局で清原選手の引退式を見て感動して号泣してしまいました。清原選手にも色んなストーリーがあったのだなと感じました。今日ここに来まして、またアスリートの方々の話を聞いていて感動しました。人生においても勉強になるなと思いました。そして、先ほどの高校生のマーチングバンドには本当に感動しました。私はソフトボールをしているので団体競技で、各ポジションの動きを見ますが、一糸乱れずに各仕事をひとり一人がやることは相当の練習量と毎日の鍛錬のたまもので、だから一丸となって気持ちを合わせてやるということができたのかなと思います。皆さんに拍手をしたい思いで一杯です。

そんな思いをして今、ここに立たせて頂いています。まさに世界への挑戦ということですが、私はヘッドコーチを拝命しました。それまでは成田さんと同じで、アトランタからシドニー、アテネまで選手としてオリンピックに出場しました。結果としてソフトボールはアトランタで4位、シドニーは銀メダル、そして金しかないと思って望んだアテネは銅メダルに終わりくやしい思いをしました。そういった中での指導者という立場を2年前に拝命したのですが、この選手達に私がなしえなかった目標の金メダルを絶対にかけさせてあげたいと思いました。そこからが、スタートであって苦労とはいえないが、毎日、毎日が葛藤の日々といいますか、努力をした日々であったと思います。

パネリスト・齋藤

アテネのオリンピックが終わり新旧の交代で、半分以上の選手が抜けてしまいました。上野投手は経験していますが、選手層の大半が若手のオリンピックを経験してない選手になってしまいました。その中で皆さんの期待に応えるべく金メダルを獲得するということは、至難の業でどうやったらいいのかわかりませんでした。その時、最初に思ったのはまず、選手ひとり一人に世界一になるということをしっかり認識させようということです。ずっとアメリカが一番強いチームでいつもアメリカに決勝で負けて悔しい思いをしていました。そのアメリカにまず勝つためにはどうしたらいいのか、そういう事をチームを結成した時に、フリーディスカッションで選手主体で話をさせました。

まず始めに思ったのは、アテネまでは金メダル獲得を目標に掲げていましたが、でも、私の思いは金メダルではなく「世界一」。この「世界一」になるのだという強い思いを強く打ち出しました。メダルはものであるが、そうでなくてもっともっと大きなもの、全ての物で世界一になるという大きな目標がないとダメだと思いました。そういうことを念頭に、金メダルではなくて「世界一」ということを意識させました。一例をあげると上野投手。非常に真面目で毎日毎日自分をストイックなまでに追い込み、目標に向けて頑張る選手です。ただ、アテネが終わったあと彼女が話していたことは「私が全て頑張る。守りは守備の人に頼ってはいけない。全てを自分が背負って行く」ということです。その考え方というのはある意味、自分が率先して頑張るという事で非常に素晴らしいことだと思いますが、バックがいて、野手が守って始めてチーム競技として勝ちを得る事が出来ると私は思います。

そういう意味でも上野投手には「世界でアメリカに勝つためにはバックを信頼して、そして打たせて取ることが大事なのだ」と話をしていきました。上野投手は理解してくれました。嬉しかったのは優勝したときの彼女のコメントが「野手を信じてよかったな」といったことです。それを彼女に伝えるのには随分時間がかかりました。それから、西山選手、横須賀出身の彼女はショートストップで、本当にすばらしい活躍をして最後にメモリアルな一打を打ってくれました。彼女には、スポーツが出来ない病気を患った過去があり、それを乗り越えてここまできました。

私も実は小学校の時、スポーツが出来ない難病を患いました。その経験があったからこそ西山選手の気持ちがわかったのだと思います。経験してきたからこそいえるのですが、「目標を持って、信じてやれば出来る。」先ほど具志堅先生は「ピンチをチャンスにする」とおっしゃいましたが、なるほどと思いました。私は野球が好きでソフトボールを始めたのですが、体をこわしスポーツが出来なくなった時、これだけの人たちが支えてくれているということを子供ながらに感じることができました。本当にその時は大変な思いをしましたが、非常に良い経験をしたと思います。今は完治してこのような場に立てて、北京オリンピックで世界一を達成できました。本当に色々な人に感謝しています。

しかし残念ながらソフトボールはオリンピックの種目から外れてしまいます。ロンドンオリンピック以降は種目がないのです。2016年に東京でオリンピック競技が開催されて、ソフトボールが復活してくれればいいなと願っています。そのためには私達だけでなく皆さんの協力が大切になると思いますので、本当にこれからもご支援よろしくお願いします。

三好

ありがとうございました。オリンピック選手からチームを引っ張るという立場になられました。「金メダル」ではなく「世界一」にという形でチームを引っ張られて、そのちょっとした表現の違いで選手の意識も、ものすごく変わったと思います。そういった指導者たちの言葉はありがたいものです。選手も気持ちが変わると思います。この後ディスカッションに移らせて頂きます。選手を変える一言、またこの一言で変わったということ、皆さんが活かされた一言や自分自身が変わった一言があればお願いします。

シンポジウム


パネルディスカッション

具志堅

私自身が変わっていったという一言は、その時々で色々な影響を受けましたので、どれが一番なのかは正直わかりません。選手がウオーミングアップした段階で今日はこのくらいできるだろうとわかります。もっとできるだろうともいえるし、もう止めときなさいともいえる。それは選手を毎日見ているからいえるのですね。基本的には練習や試合で成功すれば選手が良かった。失敗したら監督のせいになる。そういう立場で接していると選手に対しての一言は、その場面場面で変わります。

選手の目標に対してこの言葉が本当に良いのかと考えていますが、具体的にこの言葉がとはなかなかいえません。

三好

先ほど、レスリングの山本さんから試合中、浜口京子さんのお母さんがおっしゃった「ママも頑張っている」という一言が聞こえた」とありましたが、山本さんはスポーツ一家でいらしたのですが、お父さんからこんな風に育てられたということはありますか。

山本

家はやりたいことをやらせてくれていました。自分でレスリングをやろうと決めたのに、練習をしないで試合で負けて泣いていたら、父に「辞めてもいいよ」と言われたことがあります。これが一番大きかったです。父から真剣に言われて子どもながらにハッと思いました。これはやらなきゃいけない。その一言でレスリングに目覚めた、「レスリングが好きなんだ」と思わせてくれた一言です。

三好

お父さんも続けさせたかったのですね。

山本

いえ、そんなに先を考えて言ったのではなく、ただ何気なく出た一言だと思います。

三好

何気ない一言で大きく変わる。そして世界一になったということですね。私のほうは以上ですけども、パネリストの皆様から聞きたいことはありますか。

成田

皆さんの話を聞いていると環境がいいなと思います。オリンピックの選手と比べるとパラリンピックの選手はスポーツをする環境がまだまだ整っていないですね。毎日仕事をして働いて、週末に合宿に行って、それも合宿代も自腹で払って、そういう状況なのです。山本さんみたいに自分の力ももちろんなのですけど、お父さんが環境をある程度整えてくれたと伺うとパラリンピックはまだまだだと思います。そのためには皆さんの理解が必要だなと感じました。

具志堅

齋藤春香さんにお尋ねします。北京オリンピックに向かう前に金メダルが取れそうだということを具体的に思えましたか。100が金メダル間違いなしだとしたらどのくらいの数字で出発しましたか。

齋藤

一戦必勝という思いで初戦のオーストラリア戦に臨みました。10試合やったのですけども、決勝のアメリカ戦に入った時には「ほぼいける」と思いました。一戦一戦10%ずつ上がっていくというそんな感じでした。

具志堅

4年前のアテネオリンピックで、当時の体操の選手が会場に行って、ロシアの選手、そして中国の選手の練習を見た時に「行けそうだ」と思ったらしいです。選手自身が「行けそうだ」と思い、それに対して監督、コーチが「行けそうだ」と思うこと、これにもってくのが一番大事だと思うのです。そのための準備があると思っています。

これは私自身の経験ですが、ロサンゼルスオリンピックの個人総合の時に私は5番からスタートしたのですね。決勝の個人総合の時に会場へ向かうバスで40分間揺られている中で、これから始まる試合のことをイメージしました。そうすると、自分の中でどんどんテンションが上がっていきました。心臓がドキドキして心臓が口から出てきそうになりましたが、ゴクンとのみこんで鞍馬の演技をしました。通りました。手に汗をかきました。吊り輪、これは得意な種目ですから、イメージもできました。跳馬、平行棒、鉄棒、ゆか、6種目が終わった時に具志堅幸司が優勝しているというイメージが頭の中にできました。バスの中で涙を流しました。「何感激しているのだ。これから始まるのに何考えているのだ」と言われました。成功するということは具体的なイメージを映像化することだと私は思っています。4年前に選手が「いけそうだ」といった言葉と、私が24年前に経験した「優勝のイメージで自分が感激したこと」と同じだと思います。つまり勝つという時はそういう要素、つまり勝つゾーンがあると思います。そのゾーンというのは練習から来るだろうと思います。そして皆さんが共通しておっしゃっている通り、目標が具体的であったということ、そこに尽きると思います。

三好

すごく奥が深い話ですね。他にパネリストの皆様に聞きたいことはありますか。

齋藤

皆さんの座右の銘はありますか。

具志堅

「突破、突破、限界への挑戦」。

成田

特にはないですけど「夢に向かって一歩ずつ」というのは、一言書いて下さいといわれた時には書いています。何がきっかけというわけではないですけど、自分が車椅子での生活になった時、一番自分が大きく変わりました。だから何かきっかけがあったのかと聞かれると特別なきっかけはありませんでした。「車椅子を必要としているから乗っているだけ」とそういう感覚になれた時、自分の中でも気持ちがスッと楽になったのを覚えています。

山本

パネリスト

とにかく自分自身気持ちが弱くて、弱い気持ちを変えるために「絶対弱気にならない。妥協しない。最後のラスト1秒まで諦めない。」それを常に自分に言い聞かせていました。

齋藤

ありがとうございました。私は「感謝」の一文字です。

三好

最後に本日この体育センターでジュニア対象のスポーツ体験教室が開催されています。この会場の中にもジュニアの指導者の方々や保護者の方々がおられると思います。そういった方々にメッセージを一言お願いします。


メッセージ

具志堅

「楽しむ」、「無理をしない」ということです。今の指導者を見ていますと、どうしても与えられた期間でしか子供たちと接することができないので、かなり詰め込んでその時期に大きな花を咲かせようとします。でもそれは違います。もっと基本をやらなければ、もっと遊ばなければ、もっと余裕を持たなければいけないと思います。そんな指導をしていって欲しいと思います。

成田

私は1番にならなくてもいいと思います。スポーツをできる喜びや楽しさを多くの人に伝えて欲しいと思います。例えば泳げなかった人が泳げるようになる。次に1秒でも速く泳げるようになる。そうやって自分で目標を設定していけるようになることが良いことではないかと思います。

山本

私は小さい頃全く練習をしない選手でしたけれど、レスリングをいままで続けられたのは好きっていう気持ちがあったからだと思います。とにかくやっている競技を好きでいられるような環境を作ってあげて欲しいです。

齋藤

まず、思いますのは「仲間づくり」。友達をたくさん作ったほうがいいと思います。

今の時代、コミュニケーションが非常に大事だと思います。友達をたくさん作るということがとても大切なのかなと思います。

三好

ありがとうございました。短い時間でしたけれども、パネリストの方々から、普段聞くことのできない貴重な体験談をお聞きすることができました。その話の中からは、スポーツのもつ魅力はもちろんのこと、「世界に挑戦することを通して努力することの素晴らしさ」、また「周囲への感謝の気持ち」、また「友達であり仲間」、こういったものの大切さを感じとれたと思います。

本日、ご参加の皆様もスポーツを「する方」、「みる方」、「ささえる方」、スポーツへの関わり方は様々でしょうけれども、それらを通してできること、スポーツは素晴らしいものであることを改めて感じとって頂けたのではないでしょうか。神奈川県では生涯スポーツ社会実現に向けて、様々な取り組みを行っています。このアスリートネットワークの活動もまさに、スポーツを通じた幅広い社会貢献にあると思います。本日、こうして皆様方とコンベンションを開催できたことが、未来の神奈川のアスリートのために、そして神奈川のさらなるスポーツの振興のために役立つことを願っています。

パネリストの皆様、会場の皆様、短い時間でしたけれども、お付き合いしていただきましてありがとうございました。

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