紀要 第6号(8)古記録からみた大山信仰の諸相

掲載日:2018年5月14日
 

古記録からみた大山信仰の諸相 ―「大山寺縁起絵巻」・『大山不動霊験記』を中心にして―

郷土資料課 川島敏郎

はじめに

相模平野の中央にそびえ立つ大山(標高1252メートル)は、神仏の宿る霊山として、古くから貴賤上下の厚い信仰を集めてきた。特に江戸時代中期(宝暦・明和年間、18世紀後半)以降には、大山御師(註1)(明治時代以降は先導師という)の活動による大山講の組織化が進展し、相模・武蔵国内はもとより、駿遠豆・甲信越・房総方面の庶民は鉄造の不動明王に五穀豊穣・雨乞い・家内安全・商売繁盛などの現世利益を求めて、盛んに「大山参り」(「大山詣で」)を行った。このため、各所に大山に通じる大山道や大山道標が開かれ、山麓一帯には講中を迎えるために御師が経営する宿坊や土産物店が軒を連ね、門前町(註2)(伊勢原市側6町・秦野市側1町)の様相を呈するに至った。大山参詣をすませた庶民のなかには、南に進路をとって裸弁才天で有名な江の島に脚をのばし、家内安全・商売繁盛・病気平癒などを祈る者も多く、大山と江の島は当時の江戸をはじめとする関東庶民の物見遊山の二大拠点でもあった。

小稿の考察では、大山信仰の形成を知る上で不可欠の史料と考えられる「大山寺縁起絵巻」・『大山不動霊験記』という二大記録を中心にして、その基盤がどのように形成されてきたかを検討することにしたいと思う。本論に入る前に、以下、少しく大山(大山寺・大山阿夫利神社)の歴史について紹介しておこう。

1 大山略史

丹沢表尾根の東端に位置する大山の山名は、山頂に大山祇神を祀るところに由来するといわれている。古くは「石尊大権現」と呼ばれて、山頂には巨大な自然石(磐座=神が宿る岩)をご神体として祀った阿夫利神社(上社)がある。大山信仰がいつ頃形成されたかは特定できないが、過去に行われた山頂周辺の発掘調査(註3)では、縄文時代後期中葉の加曽利B式土器片や古墳時代の土師器片・須恵器片のほか、平安時代の経塚壺・経筒などが発見されたことから、かなり古い時代から大山に分け入る人々が存在し、そのような人々の間で大山の山岳信仰が徐々に形成されていったと考えられる。とくに縄文時代の土器片の遺物については、その当時の人々の信仰の遺物であるとする説と後世の修験者が持ち込んだものであるという説とに見解が分かれ、未だに決着をみていない。

古文献上では、8世紀中頃に成立した『万葉集』の東歌に「相模峰の雄峰見過ぐし忘れ来る妹が名呼びて吾を哭し泣くな」と謳われていることから、相模峰の雄峰として、その山容を誇っていたことがうかがわれる。また10世紀前期に作成された『延喜式』神名帳(註4)には、相模国十三座の一つとして大住郡の項に「阿夫利神社」が名を列ねており、神名帳の原本である神祇官の台帳はすでに天平年間(724~748年)にはできていたとされるので、阿夫利神社の草創は8世紀前半にさかのぼることができる。ちょうどこの頃から、日本固有の神道信仰と異国からもたらされた仏教信仰が融合調和した神仏習合がはじまり、さらにその後、山岳信仰をもととした修験道が盛んになると、山の中腹に不動明王像を本尊とする大山寺が建立されて阿夫利神社を管理する別当寺となって、「石尊大権現」と一体化した大山信仰が形成されるようになったと考えられる。

大山寺の開創の由来は、『續群書類從』第27輯下釋家部に収められている『大山寺縁起』(真名本)に次のように記されている。天平勝宝7年(755年)、東大寺初代別当の良弁僧正(相模国出身、一説に近江国出身)が大山寺を開創し、聖武天皇は当寺を国家安穏を祈願する勅願寺とし、相模・安房・上総三国の租税の一部を充てて寺院経営を行わせた。その後、天平宝字5年(762年)には行基の遺命により、弟子光増が不動明王像を彫刻して本堂に安置したと記されている。その後の大山寺は元慶2年(878年)の大地震とそれにともなう大火により倒壊・焼失したが、元慶8年(884年)に安然(最澄の同族で円仁の弟子)によって再興され、天台宗系の僧侶たちの山林修行の場として命脈を保ったようである。

平安後末期には、大山は高部屋神社の地域(丸山城)を本拠地とする在地武士糟屋氏が支配する糟屋荘内に組み込まれ、その糟屋荘は久寿元年(1154年)12月に安楽寿院(京都市伏見区竹田内畑町)に寄進(註5)され、ついで鳥羽法皇の皇后美福門院得子、さらにその子八条院しょう子へと伝領(八条院領約220か所)されていった。

鎌倉時代に入ると、糟屋氏が幕府を開いた源頼朝の御家人になったのにともない、大山寺は幕府の庇護のもとで一山を経営することになった。幕府の記録である『吾妻鏡』によると、元暦元年(1184年)に頼朝は高部屋郷の水田5町歩・畠8町歩(註6)を、建保2年(1214年)に三代将軍実朝は丸島郷(現平塚市)5町2段(註7)を大山寺領として寄進して、天下泰平・武運長久などを祈願している。その後、大山寺は一時荒廃するが、文永の頃(1264~1275年)に鎌倉に下向した真言宗の学僧である願行房憲静(註8)(のちに泉涌寺6世・東寺大勧進職)によって復興する。願行は異国(蒙古)降伏の秘法を修する目的で大山に登り、百日間の難行苦行に入る。師である意教房頼賢から与えられた一体の鉄造不動明王を前に一心不乱に祈ると、目の前に憤怒の形相をしたおどろおどろしい不動明王が姿を現し、なおも祈りをつづけると、鉄造不動明王はぱっと目を見開いたという。これに感涙した願行は、この時の不動明王の姿そのままに二体の鉄造の不動明王像を鋳造した。その一体が鎌倉二階堂にあった大楽寺(廃寺)の不動明王像(「試みの不動」と呼ばれ、現在は覚園寺蔵・県重要文化財)で、もう一体は大山寺の不動明王像(国重要文化財)である。

幕府と大山寺との関係は足利将軍家・足利関東公方家や上杉関東管領家にも継承され、大山寺領として丸島郷・高森郷、武蔵国小山田保内山崎郷今井村(現東京都町田市)などや諸堂の造営費の寄進(註9)が行われるなどして一山の経営は維持された。しかし、室町時代後末期には、これまでのような保護は期待できなくなった上、外部からの侵入や寺内の修験勢力の伸張にともない、学僧による一山の経営は困難な状況になった。文明18年(1486年)の冬に奥州巡錫の途中、大山に登山し止宿した道興准后(関白近衛房嗣の子で、天台宗本山派の中枢にある熊野三山検校・聖護院門跡)は、その紀行歌文集である『廻国雑記』(註10)の中で、その夜の大山は寒くて眠れなかったと書き記している。このことからも一山が衰微している様子がうかがわれる。戦国時代に入ると、大山は修験者を戦略的に利用しようとした小田原北条氏の支配を受けることになり、大山修験勢力は天台宗・本山派玉瀧坊(現小田原市松原神社付近)の配下に組み込まれた。永禄2年(1559年)頃に作成された『小田原衆所領役帳』(註11)によると、寺領として中郡高森郷178貫467文が大山寺に宛てがわれている。

徳川家康が天下を制すると、天正18年(1590年)の小田原征討に際して、大山修験勢力が北条方に与して激しく徳川方に敵対した(註12)こともあり、慶長10年(1605年)、家康は大山の大粛清に着手した(註13)。その結果、大山山中からは修験勢力を一掃して山内居住は清僧(学僧)25口に限定するとともに、宗旨を天台宗から古義真言宗へ転宗させ、相模国八幡村(現平塚市)の成事智院住持、法印実雄(小田原中村原出身、二宮等覚院開山)を大山寺初代学頭に任命して八大坊(十二坊の筆頭)に常住させることなどを命じた。さらに幕府は、慶長13年(1608年)には硯学領として実雄に小蓑毛郷(現秦野市)57石余(註14)を、翌々年には寺領として坂本畠屋敷72石余と子安村の一部27石余、併せて100石を御朱印地として寄進し、経済的な保護を与えた(註15)。特に「寛永の大修理」の際には、三代将軍徳川家光は造営費1万両を下付するとともに、春日局を大山寺落成祝賀式も含めて代参として二度も参詣(註16)させている。一方、下山を命じられた修験者たちは抵抗の姿勢を示しつつも蓑毛と大山の麓に居を構え、以後御師として、新たに宿坊・土産物屋経営や祈祷・檀家廻りなどの教宣活動を行うことによって、生活の支えを得ることになった。その結果、大山門前町(秦野市側に蓑毛町、伊勢原市側に坂本・稲荷・開山・福永・別所・新町の6町)の形成と大山講の信仰圏の拡大が達成されることになった。明治初期にまとめられた『開導記』(註17)によると、大山講は相模・武蔵国を中心に房総・甲信越・駿遠豆に同心円的に拡大し、総講数1万5700、総檀家数約70万軒にも達している。

しかし、明治元年(1868年)3月に明治新政府によって神仏分離令が発令され、全国的に廃仏毀釈運動の嵐が吹き荒れる中で、大山寺はその煽りを受けて取り壊された。その旧跡には新たに阿夫利神社下社が建立されたため、大山寺は女坂の途中の現在地(旧来迎院地)に、明治18年(1885年)に明王院として再建され、大正4年(1915年)に観音寺と合併してようやく雨降山大山寺の旧称に復した。

2 「大山寺縁起絵巻」の世界

(1)「大山寺縁起絵巻」の諸本について

大山信仰が隆盛化した背景には、「大山寺縁起」の民間への流布が介在したと思われる。同縁起には真名本と仮名本の二系統が存在する。小島瓔禮氏・佐伯英里子氏・鈴木良明氏の論考(註18)に依拠して資料の現存状況を示すと、前者は寛永14年(1637年)の年記をもつ大日本仏教全書を初めとする11点、後者は享禄5年(1532)の年記をもつ平塚市博物館本を初めとする13点、合計24点が確認(註19)されている。前・後者ともそれぞれの内容表記に若干の差異はあるものの、大概において内容構成そのものには大きな異同は認められない。本稿で採り上げる「大山寺縁起絵巻」の平塚市博物館本(註20)は、上巻(詞書・絵画各11)・下巻(詞書13・絵画12)2巻から成り、その制作年代は奥書に、「亨禄(享禄)五壬辰年菊月(9月)十三日」とある。また詞書は祐賢坊乗真(伊勢原市教育委員会本では斎藤一器子外1名、藤沢市教育委員会本・大山寺本では橘盛林、内閣文庫本では当山〈大山〉寺務賢隆、町田市勝楽寺本では平岡伊織頼経)が書き記し、乗真はこの絵巻物を修験者と思われる大源坊(不明)・東学院(東学坊か)(伊勢原市教育委員会本では宝蔵坊〈大山脇坊24坊の一つ、吉川領太夫か〉玄浄代、藤沢市教育委員会本では大山寺繁盛坊〈本山・天台修験〉一代、町田市勝楽寺本では法眼祐泉坊〈大山寺候人・承仕〉)に奉納・施入した(註21)ことが判明する。さらに絵筆者については、伊勢原市教育委員会本に清水七之烝・清水七右衛門が掲載されるのみで、他の諸本においては全く不明である。

既述の如く本縁起は仮名本縁起絵巻13点の中で最も古く、各縁起絵巻の内容構成にほとんど異同が認められないことから、後世の江戸時代以降の縁起絵巻(貞享元年〈1684年〉制作の伊勢原市教育委員会本、元禄12年〈1697年〉制作の藤沢市教育委員会本など)の基準となったと考えられる。以下、本縁起絵巻上・下2巻を読み解きながら、大山寺開創に関わる霊験譚の概略を紹介することにしよう。

(2)「大山寺縁起絵巻」の内容について

上巻

昔、相模国(『七大寺巡礼私記』(註22)では近江国粟津、虎関師錬『元亨釈書』(註23)では近江国志賀、一説に相模国)の国司に大郎大夫時忠(真名本・『東大寺要録』(註24)では漆屋太郎大夫時忠)という信仰心がとても厚い人物がいた。40歳になっても彼には子供がなかったため、如意輪観音像を造立(真名本には記述なし)して、妻とともにこの尊像に子供が授かるように一心不乱に祈念した〔第1段〕。ある夜のこと、時忠夫妻の夢の中に80歳ほどの老僧(霊山の釈迦)が現れ、弥勒菩薩の化身という法華経一巻を授けて、かき消すように姿を消した〔第2段〕。その後間もなく時忠夫妻には仏・菩薩の化身かと思われるほどの男子が誕生し、国中の人々からも大変な祝福を受けて大切に養育した〔第3段〕。ところが生誕から50日(伊勢原市教育委員会本・藤沢市教育委員会本などでは70日、真名本では50日)後、乳母が野原に出て赤子を湯浴みをしている隙に、飛来して来た金色の鷲にさらわれた。夫妻は悲嘆に暮れつつも四方八方に手を尽くして必死に赤子を尋ね求めたが、その行方は杳として知れなかった〔第4段〕。

その頃、奈良の都に顕密の硯学で知られる一人の学僧がおり、その名を覚明(真名本では学明、『元亨釈書』・『東大寺要録』では義淵)上人といった。彼はある時、当来導師弥勒菩薩が来臨して仏法を弘めて大伽藍を建立する夢を見た。夢から覚めて深山に分け入り大きな楠木(伊勢原市教育委員会本では杉木、真名本では櫟樹)を見上げると、その枝の隙間に赤子の泣き声を聞いた。立ち寄って見ると、金色の鷲が巣の中に赤子を懐いていた。赤子を奪い取ろうとしたが、鷲が抵抗したため手に入れることはできなかった〔第5段〕。そこで覚明上人は念持仏の不動明王に「自分が夢で見たことが真実であるならば、この子を五体満足にして取り戻し賜え」と7日間祈念したところ、翌朝に1疋の猿(平塚市博物館本のみ)が現れ、上人にその子を手渡した。受け取って見ると、その子は錦の産衣を纏い、その裏には誕生の年月が記してあることから父母がいる事を知り、いろいろと尋ねてみたが捜し出すことはできなかった。その間、覚明上人はこの子を父母のように大切に養育し、その因縁により「金鷲童子(『宝物集』(註25)・「東大寺大仏縁起」(註26)では金鷲仙人、『東大寺要録』では金鷲菩薩)」と呼んだ〔6段〕。

やがて「金鷲童子」が19歳に達した時、師匠の覚明上人は臨終を迎えることになった。童子は金皷を鳴らし、阿弥陀三尊が上人を来迎する最期の光景を見届け送った〔第7段〕。その後童子は、上人のために執金剛神像を造立し、これを本尊として「聖朝安穏、天下泰平、興隆仏法、利益衆生」をひたすら祈念した。するとその信力が通じたか、本尊の脚に掛けていた五色の糸が天皇(聖武天皇)の王宮を照らした。不思議に思った天皇は、勅使を派遣してその光源を探索させたところ、その光が執金剛神像の元から発していることを知った。そこで勅使が童子にその理由を問いただすと、童子は「自分には興隆仏法の気持ちはあるものの自力ではどうしても適いがたい。天皇の威光を頼りにして大伽藍を建立したい」との趣旨を伝えた〔第8段〕。勅使が童子の意志を天皇に伝えると、天皇は大変喜び、大急ぎで童子を召し上げ、「今まで自分も大願はあるものの、適切な仏教の師匠に恵まれなかった。今後はお前を師匠とし、その仏弟子となる」と告げた。これを受けて童子は出家して良弁と改名した。そうしているうちに、良弁は時の権威といい、仏道修行といい、何れも世に秀でていたので、東大寺(前身は金鐘寺)を建立し、その別当となった。華厳宗の確立はこの時点から始まる〔第9段〕。

一方、長い間愛し子を探し求めていた時忠夫妻は、住み慣れた家や財宝を捨て、郎従とも別れて諸国遍歴の旅に出た。必死で艱難辛苦に耐えながらわが子に会えないことを嘆いいていた〔第10段〕。先ずは東国に心の赴くままに旅を続け、陸奥国と坂東との境の阿武隈川に至り、そこで旅人から我が子の情報を得るための手立てとして川の渡守をした。ここで多くの年月を費やしたが、何の成果を得られぬまま、渡守は止めることにした〔第11段〕。

下巻

その後、時忠夫妻は東山道を経由して信濃国に出て、一旦相模国由井の里に帰還した。昔住み慣れた場所は見る影もなく荒廃し、ただ涙に咽ぶばかりであった。この地に止まることも致し方なく、西海道(九州)を目指して行くこととした《第1段》。西海道を目指して脚に任せて進むうちに、淀の渡しに到着した。そこで便船を待って船に乗ったところ、その渡守から「何か物を探しているのか」と質問された。時忠は「私どもは相模国の住人であるが、生後70日(50日の誤り)にして我が子を鷲に攫われ、その子供の行方を探し求めて、生きている間に是非とも会いたくて諸国を遍歴しているのだ」と語った。すると、渡守は「今現在、奈良の都に聖武天皇の仏教の師匠として、東大寺の別当良弁僧正という方がいらっしゃる。その方は鷲の巣から取り出した人と聞いている。若しかしたら、この方こそ正にお前さんのお子さんではないのか。尋ねてみなさい」と話してくれた。これを聞くや否や、時忠夫妻は心騒ぎ胸も押し潰されるような思いで、急ぎ奈良の都へと向かった《第2段》

都に着いた時忠夫妻は早速東大寺の別当坊や稚児法師などに事の次第を話してはみるものの、至極冷淡な仕打ちを受けて門外に追い出される《第3段》。夫妻が大仏殿の南大門の傍らに粗末な小屋掛けをして臥していると、良弁がたまたま内裏への加持祈祷から帰還してきた。良弁は老人(時忠)の方から差し込む光に気が付いてその理由を尋ねた。そこで時忠は事の子細を懇切丁寧に説明したところ、左の脇の下にある三つの黒子や産衣に記された誕生の年月などから、正しく探し求めていた我が子であると断定でき、ただひたすら涙涙の対面となった《第4段》。良弁親子の対面の風聞を耳にした聖武天皇は、直ちに昇殿して叡覧する許可を与えた。天皇は時忠に再び相模国の国司に就くことを命じるとともに、良弁に両親とともに相模国への一時帰国を認めたが、高僧としての誉れが高いため相模国での仏法弘通と衆生利益を果たしたならばすぐに上洛することを命じた《第5段》。程なくして相模国鎌倉の由井郷に帰還した時忠は旧跡の地に屋形を造営し、在地を招いて盛大な宴を催した《第6段》。ある時、良弁は庶人の協力を得て相模国内で仏法弘通・衆生利益のために相応しい場所を探し求めたところ、大きな山で山頂から光を発する山を発見するに至った。ここでは放光山伝説が記述されているが、これは古来山岳修験系の縁起によく採用される手法でもある《第7段》。良弁が先導して山頂に登り、発光する山頂を広さ約3丈(9メートル)・深さ約2丈(6メートル)ほど掘ると、その中から不動明王の石像が出現した。人々は、この不動明王の姿を見て目が眩み卒倒するが、良弁の加持祈祷によって元のように蘇った。その際、不動明王はこの山は弥勒菩薩の浄土(兜率天浄土)であると語った《第8段》。そこで、良弁が不動明王の姿態を石像から他の物に移し変えて末代の衆生利益を図ろうとしたところ、山の南方にあった槻の大樹の枝が、人が切り倒すが如く樹の根元へ落ちたかと思いきや、直ちに空に舞い上がって現在の金堂の前に落下した。良弁はこの木こそ正に不動明王を移し変える木として模刻を始めたが、その相好(姿・顔かたち)が完成しないうちに不動明王の胸の辺りから乳(他の大山寺縁起絵巻諸本では血)が出て来たので、制作の手を休めた。この場面には本尊を霊木で模刻するという霊木信仰がうかがわれる《第9段》。その尊像の前で良弁が21日間にわたる祈願・祈誓を行ったところ、忽然と四十九院(弥勒経に出てくる兜率天浄土という理想郷のことで、ここでは弥勒菩薩の化身をさす)も出現し、不動明王は「当来導師慈氏尊 法花樂生名良弁 我山建立作仏事 末法衆生施安楽 此地清浄為結世 迷多衆生不来住 東南西限十八町 我形像作為本尊 是山五仏表形像 五大明王当守護 一度参詣得寿福 家内安穏無諸病」という12句の偈を説いた《第10段》。さらに良弁が金堂の乾(西北の方向)の谷にある岩窟の下の池の端で、7日間祈りを捧げたところ、池の中から大蛇が出現し、「自分は大山を守護する震蛇大王(真名本では深砂振邪大王)である。長い間荒神となって五濁(見・命・煩悩・衆生・劫濁の悪世)に染まり、仏教の真理を弁えなかったが故にこのような蛇身を受けることになってしまった。今現在、良弁上人の法施に預かることによって兜率天の内院に生まれ変わることができた。これ以降は大山に垂迹して大山寺を守護し、衆生を利益したい」と宣誓し、「四十九院当現前 即是都率為内院 一切天人皆影向 権実二類成守護 瀧水早下顕智水 衆生煩悩洗重穢 一切諸魔皆退散 今世後世得自在」という8句の偈を説いた。ここには本地としての仏・菩薩が世の衆生を救済するために権に大蛇(真名本では龍神、護法善神)に姿を変えて垂迹したという、本地垂迹説に基づく典型的な神仏習合の形跡を読み取ることができる《第11段》。大蛇は大山に信仰心を寄せる人々に利益をもたらし、臨終の際には彼らを浄土に引導し、名利を追求して怠慢心を抱く者には罰を与えると約束したので、良弁は大蛇に参詣者の便宜を図って一筋の流水を下してくれるように懇願したところ、岩窟の頂きから滝水を落とした。この滝水とは、真名本では「龍神は二重の滝の主人」と記載されていることから、「二重の滝」と見なして誤りないであろう。この段で注目すべき点としては、詞書には一切記載されていない役行者(修験道の祖、役小角)が絵画の中に二鬼神とともに登場することから本縁起絵巻における修験道の影響が垣間見られること、絵画に龍王(大蛇)の出現と水垢離を取っている修行者の姿が描かれ、大山信仰の根幹の一つである、大山寺と水に関係した因縁が生き生きと描写されていることが挙げられる《第12段》。

かくして、大山には次々と不思議な奇特の瑞相や生身の仏・菩薩が眼前に現出して、衆生を利益することは昔から今現在に至るまで明証することができる。また大山は日本第一山で、東・西・南・北の眺望に恵まれた景勝地であり、神仏の宿る神聖な山というに相応しい。金堂・鐘楼・経蔵・三重の塔・不動明王の社壇を初めとして諸仏が造立され、また弥勒菩薩に関係した兜率天浄土を象徴する四十九院の坊舎が甍を並べ、軒を重ね、所々で坐禅入定・学問修行の勤行は絶えることはなく、出離解脱の霊地といった感がある。こうしているうちに、良弁の大山での滞留は3か年にも及んだ。聖武天皇との約束期限も迫り、大山衆徒は評議を開き、良弁なき後の大山寺の繁栄と興隆仏法を維持・堅持することを懇願して公家(藤沢市教育委員会本・大山寺本は公家・武家、真名本は公家・天皇)へ奏請することで衆議一決した。そしてさらに大山の様相や一々の奇特を天皇に奏上したところ、天皇も大変喜んで安房・上総・相模国の所領の一部を寺領とする旨の命令を下した。この措置が講じられることによって、大山寺はますます繁盛し、仏法・王法ともに隆盛して天下泰平、国土安穏が達成された。ある時、不動明王は良弁に託宣して、「日本国の大天魔は全て自分の支配下に収めた。天下が乱れ、国土が不穏となり、風・雨・水・火の災難が起こった時には、大山に参詣して加持祈祷をすれば、災難は速やかに減少し、国土安穏になるであろう」と語った《第13段》。

以上が「大山寺縁起絵巻」の概略であるが、次にこの中に登場する相模国の国司、大郎大夫時忠、その子良弁と大山との関係について、若干考察を加えてみることにしよう。

(3)大郎大夫時忠と良弁の出自をめぐって

「大山寺縁起絵巻」に登場する大郎大夫時忠及びその子とされる良弁の出自については、既に指摘しておいたように、相模国説、近江国説、折衷説(相模国誕生・近江国移住)があり、またその俗姓についても、漆部氏説・百済氏説、百済系渡来人説と相分かれる(註27)ところである。

『大山縁起』(真名本)には、「良弁者相模国鎌倉郡由伊(井)郷人也、俗姓漆部氏、当国良将漆屋太郎大夫時忠子也」と記載されている。また、建武4年(1337年)の奥書をもつ「東大寺縁起絵巻」には、「良弁僧正者相模国大隅(住)郡漆窪云所ノ漆部ノ氏人也」とあり、さらに『東大寺要録』にも「僧正者相模国人漆部氏也」とあることから、良弁父子が相模国漆部氏と密接な関係を有する人物であるとともに、その存立基盤が相模国鎌倉郡由井郷か大住郡漆窪の何れかに存在したと思われる。この両者を比較した時、良弁と大山との関係、俗姓と地形・地名、大山との至近距離にある立地条件、有力古墳の分布状況等々を勘案すると、鎌倉郡由井郷よりも大住郡漆窪(現秦野市北矢名付近には、漆窪・大夫久保の字名が存在する)がにわかに注目されてくる。

ところで、良弁の父親とされる漆屋(一説に染屋・染谷)太郎大夫時忠とは一体如何なる人物であろうか。この人物に比定される人物として、この当時に実在した漆部直伊波を挙げることができる。相模国の豪族である伊波と中央政府との関係を示す初見史料としては、『続日本紀』天平20年(748年)2月壬戌条(註28)が挙げられる。これによると、「知識物ヲ進ムル人等(中略)従七位上染(漆)部伊波並外従五位下ヲ授ク」とある。『東大寺要録』の記録から推考するに、この時の昇叙は東大寺の盧舎那仏(大仏)造立に際して、10名の大量商布献上者の一人として、伊波自身が2万端もの商布を東大寺に寄進した行為の功績が公的に認められたものであったことが判明する。この事実から、伊波が相模国において相当な経済力を保有するとともに、中央との密接な関係を保有する人物であったと推考して誤りないと思う。

また、『東大寺文書』によると、伊波は天平宝字5年(761年)に東大寺から摂津国西成郡美努郷の堀江川添(難波津の交通の要衝)を買得しており、伊波の広範な交易活動と東大寺との密接な結び付きを指摘することができる。さらに、『続日本紀』神護景雲2年(768年)2月戊寅条には、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(764年)の鎮圧の功労者の一人として伊波が挙げられ、朝廷から外従五位下から従五位下勲六等が賜与され、「大夫」と称されるに相応しい位階が備わったほか、「染(漆)部伊波ニ相模ノ宿禰ヲ賜ヒ、相模国ノ国造ト為ス」とある。ここに見られる国造は大化前代のそれとは異なり、いわゆる「律令国造」或いは「令制国造」と呼称されるもので、この職掌には本国及びその出身者が一国一名任命され、その多くは神祇祭祀に従事した、との先学の指摘(註29)もあり、伊波の宗教祭祀の執行も看過できないところである。

以上の考察から、「大山寺縁起絵巻」・「大山縁起」(真名本)などに登場し、良弁の父親とされる相模国の国司、漆屋太郎大夫時忠とは漆部直伊波その人であり、彼は直という大和政権下の姓をもつことから、旧相武国造の系譜を引く地方豪族で、相模国大住郡の大山周辺(現秦野市北矢名付近)に本貫地を有しながら勢力を伸張させ、やがて東大寺の盧舎那仏造立への寄進行為などを契機に、中央への進出を試み、政治的・経済的・宗教祭祀的地位を確立していったものと考えられる

3 『大山不動霊験記』の世界

ここに採り上げた『大山不動霊験記』(註30)(大山寺本、全15巻・15冊)は、大山寺塔頭養智院(12坊の一つ)前住職心蔵(註31)が自らの見聞や御師等からの聞き取りをもとにしてまとめたものである。寛政4年(1792年)に、「書肆御書房出雲寺和泉西村源六」(註32)板木を元として出版され、全体で131話から構成されている(【資料1】参照)。出版の目的は、本書の奥付によると、「此書印刻入銀施主一部之料金三百疋宛、為家門繁栄・息災延命・壽福延長・現當二世諸願成就也」とあることから、大山に信仰心をもつ篤志家がそれぞれ思い思いの様々な祈願を込めて、このような出版事業に参加したことが窺い知られる。

出版するに当たって、僧・俗併せて34名の賛同・出資者があり、その内訳は前者では大山寺関係者が寂信(出版当該時の大山八大坊別当・第13代)外18名、板戸村宝珠院(現伊勢原市・古義真言宗)・石田村圓光院(同)・江戸王子(現東京都北区)宥鑁、後者では江戸町人が永富町(現東京都千代田区)西村大和外8名、相模国住人が足柄下郡小田原(現小田原市)佐五兵衛外3名である。なお、発行部数は大山寺関係者(うち3名は大山御師)が19名で24部、古義真言宗関係者が3名で3部、俗人では江戸町人が9名で11部、相模国住人が3名で8部、合計34名で46部を数える。出版費用は、既述の奥付に施主一部三百疋宛を受益者負担とするとしていることから、当時の江戸の相場では百疋が約4万円と算定されるので、一部三百疋の場合には約4万円×3=約12万円となる。さらにこれに全体部数の46部を乗ずると、総合計金額は約552万円に上る。当時の印刷・出版事情や米価の変動などを考慮に入れると、上記のような単純計算では済まされない部分があるとしても、とにかく相当の集金力が必要とされたことは想像に難くない。

『大山不動霊験記』に掲載された話(但し、第1巻・第1話~同第6話は大山寺そのものの記事で構成されているので対象外として、第2巻・第7話~第15巻・第131話までの125話を考察の対象とする)は、どのような手立てを講ずれば大山不動明王の霊験を招き寄せ、出版目的に掲げているような項目を達成することができるのかを、生き生きと告知することによって、大山信仰を一層拡大・深化するのに一定の役割を果たしたと考えられる。

(1)地域分布の分析(【資料2-1】参照)

『大山不動霊験記』に掲載された神奈川県内関係の霊験譚は66話に及び、全体の50%強を占めている。中でもとりわけ、大住郡(現伊勢原・平塚・秦野市域)のそれは32話(県内の48%)にも達し、圧倒的に他地域と比較して群を抜いていることが注目される。ついで、足柄下郡(10話)・高座郡(8話)・愛甲郡(6話)・足柄上郡(4話)となっており、県内の武蔵国(現横浜市・川崎市域)は極少である。これは作者心蔵の居住・行動範囲といった制約と、大山の占める位置に起因しているものと考えてよいであろう。

一方、県外地域の記事に目を転じてみると、59話のうち江戸市中(21話)・武蔵国(11話、但し、江戸市中及び現神奈川県域を除く)にほぼ集中しており、あと目立つ所では下野国(現栃木県、11話)が挙げられる程度で、常陸国(現茨城県、3話)、駿河国(現静岡県、2話)、甲斐国(現山梨県、2話)、上野県(現群馬県、2話)、陸奥国(現東北地方、2話)等々、極少となっている。このような結果は、大山の信仰圏の分布を知る上で貴重な素材を提供しているものと考えられる。因に、この中で大山の信仰圏とは大幅に外れる出雲国の女の話が出てくるが、これは夫が江戸の松平某の屋敷に奉公に来て急に出奔し、その後出家して光圓と名乗り、大山寺の本堂にある不動明王の燈明役として仕えていることも知らずに、夫を捜し求めて出雲国から娘とともに江戸に出て来た母子が、大山への信心によって夫に巡り会え、親子三人で無事に出雲国に帰還したという特異な例である。

(2)年代分布の分析(【資料2-2】参照)

次に記載された年代に注目してみた場合、どのようなことがいえるであろうか。江戸前代の話題はたったの3件で、それは曽我兄弟が不動明王に願書を捧げて親の敵討ちを果たした事(第10巻・第81話)、相模国善波太郎が石尊の霊応によって八幡宮として崇められた事(第8巻・第75話)、甲州の教雄阿闍梨が武田信玄の息女の狂心を加持祈祷によって平癒させた事(第4巻・第32話)である。それ以外はすべて江戸時代の寛永年間(1624~1644)から『大山不動霊験記』が出版された寛政4年(1792年)までの話題である。中でもとりわけ、明和・安永年間(1764~1781年)、つまり18世紀後半に集中しており、全体の約58%に達する勢いを示している。特に安永年間(44話、全体の約34%)がそのピークであったことが判明する。従来、大山信仰の最盛期は宝暦年間(1751~1764年)以降といわれ、その参詣者数は80万人~100万人ともいわれてきたが、この『大山不動霊験記』の数値からも肯首できるであろう。

(3)登場人物の分析(【資料2-3】参照)

『大山不動霊験記』に垣間見られる登場人物では、何と言っても百姓が圧倒的多数(57人、約47.5%)を占め、ついで町人(20人、16%)、商人(6人、5%)、職人(6人、5%)といった都市生活民(合計32人、26%)が現れ、以下僧侶(15人、12%)、漁民(8人、6.4%)、武士(6人、5%)の順になっている。このことは、大山信仰が百姓階層を中心とした正真正銘の庶民信仰に支えられていた証左ともいえよう。

(4)現世利益の内容分析(【資料2-4】参照)

では庶民は一体全体、どのようなことを大山(大山寺・大山阿夫利神社)に希求・祈念したのであろうか。その内容は大別して二つ存在したと思われる。その第一は、病気平癒(45話、36%)、中でもとりわけ、疫病・眼病・腫物・狂心・憑き物・中風・癩病(註33)などからの快癒が具体例として挙げられている。もう一つは災難除け(34話、27%)で、火難・盗難・水難・虫害等からの回避が具体例として指摘されている。その他としては、盗品の戻り、智恵獲得、大漁、樹木生長、嗣子誕生等々、実に庶民の種々雑多な願いが次々と奔出している。しかし、大山古川柳に散見されるような借金逃れの霊験譚は皆無である(註34)。

現世利益はただ手を拱いて見ていても成就するものではない。実践行動が伴って初めて、満願に達するものであるということも『大山不動霊験記』は各所で語って止まない。そこで、庶民はどのような実践行動を取って現世利益を獲得したのか、『大山不動霊験記』の霊験譚の中から一例(第4巻・第28話)をここに紹介することにしよう。

相模国大住郡富岡村(現伊勢原市)に新右衛門という貧しい百姓がいた。彼は両親・妻子を養育するために隣村に奉公に出たが、後に家に帰り農耕に従事するかたわら、日々大山不動尊を信仰した。彼には二人の男子と三人の女子がいたが、一人の女子は前世の因縁からか、吃りで物が満足に言えなかった。そこで夫婦は慨嘆し、大山不動尊へ祈願を込め、明和2年(1765年)から安永3年(1774年)にかけて、年毎に百日ずつ3万回の垢離(神仏に願を掛けて心身を清めるために冷水を被る行為)を取り、それ以外の時には一心不乱に大山不動尊に祈念したところ、安永3年から次第に娘の弁舌は爽やかになり、両親の歓喜はこの上もなかった。また、3万回の垢離を取り始めた日から突如として、屋敷の傍らの岩間から清水が湧きだし、垢離のみならず用水にも利用できるようになった。その結果、貧しい生活も次第に安楽となり、苦悩もなくなった。さらに彼は真実無偽の人であるので、他人が瘧病(熱病の一つ)を患っていると、先程の清水で千垢離を取り、大山石尊の木太刀を病人に高く掲げさせ、たちどころに病気を治癒したことが度々あったが、彼らから一銭の施しも受け取らなかったので、人々から尊敬されたという。

常日頃の大山への尊崇の念を持続することは勿論のこと、この例に見られるような水垢離のほか、参詣・断食・護摩供・懴悔・参籠・加持祈祷・密呪・正直・納め太刀等といった実践行為が相俟って相乗的に作用して初めて、現世利益が達成・成就されることを『大山不動霊験記』は各話で説き明かしている。

結びにかえて―今後の課題―

小稿は、「大山寺縁起絵巻」・『大山不動霊験記』等の古記録類に依拠して、古代から近世の大山信仰の形成から発展の歩みを考察したものであるが、今後は大山道の路傍に建立された大山道標(註35)や、大山信仰に関連した文学(古川柳・俳諧・滑稽本・道中日記等)・民俗芸能・絵画資料(浮世絵・双六)等の検討にまで視野を拡大し、大山信仰を総合的に把握する試行をしていきたいと考える。大方のご批判・ご叱正をいただければ幸甚である。

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【註】

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  1. 江戸後期の御師の数に関しては、秋里籬嶋『東海道名所圖會』(寛政9年〈1797年〉刊)には、「雨降山大山寺・・・・・・当八大院、其外坊舎十八院、御師百五十余宇、又蓑毛村に十五宇、みな修験なり、・・・・・・」と記されている。また、昌平坂学問所地誌調所の間宮士信等編『新編相模國風土記稿』(天保12年〈1841〉完成)巻51村里部大住郡巻10。以下、『風土記稿』51-大住10と表記する)には、「師職百六十六軒、多く坂本村に住す、蓑毛村にも居住せり、皆山中に住せし、修験なりしが、慶長10年(1605)、命に依て下山し、師職となれり、」とも記されている。これらの記述から、江戸後期には御師は166軒程が存在したと考えられる。
  2. 有賀密夫『大山門前町の地理的研究』(私家版、1989年)、浅香幸雄「大山登山集落形成の基盤」(東京教育大学地理学報告、1967年)。
  3. 赤星直忠『神奈川県大山山頂調査概報』(1960年)、同「大山の話」『かながわ文化財73』(神奈川県文化財協会、1977年)。
  4. 『延喜式』九「神祇」には、相模国には阿夫利神社の外に前鳥神社(現平塚市四之宮)、高部屋神社(現伊勢原市下粕屋)、比比多神社(同三之宮)の社名が挙げられている(『伊勢原市史』資料編 古代・中世437。以下、『市史』資 古代・中世437と表記する)。
  5. 「安楽寿院領諸荘所済注文」(『神奈川県史』資料編1 古代・中世(1)798、『市史』資 古代・中世21)。
  6. 『吾妻鏡』巻3元暦元年9月17日条(『市史』資 古代・中世357)。
  7. 『同』巻22建保2年12月1日条(『市史』資 古代・中世419)。
  8. 『大山不動霊験記』第1巻・第2話「中興開山願行上人略傳」(【資料1】参照)。
  9. 「足利尊氏寺領寄進状」(『市史』資 古代・中世190)、「関東管領(上杉朝宗)施行状写」(同194)、「関東公方(足利持氏)寄進状写」(同196)等。『市史』では武蔵国小山田保山崎郷内今井村を現神奈川県横浜市保土ケ谷区と比定しているが、現東京都町田市の誤りである(『角川地名大辞典13 東京都』、178頁参照)。
  10. 『群書類從』第18輯(『市史』資 古代・中世442)。天台宗聖護院道興は文明18年(1486)6月から翌年5月にかけて北陸・関東・奥州を廻国した際、大山寺や日向薬師に留錫した。
  11. 杉山博校訂『日本史料選書2 小田原衆所領役帳』「社領」(近藤出版社、1969年刊)。
  12. 『風土記稿』51-大住10には、「當山の修験學善坊(山伏薩摩と号す)、北條氏直に從ひ、軍陣に在て大貝を吹し事所見あり、……」とある。
  13. 林述斎等『徳川実紀』慶長10年(1605)1月11日条、『風土記稿』51-大住10。
  14. 「慶長13年(1608年)10月大山寺実雄宛徳川家康黒印状写」(『市史』資 続大山7、『改訂新編相州古文書』第1巻)。
  15. 「慶長15年(1610年)7月大山寺別当八第坊宛徳川家康黒印状写」(『市史』資 古代・中世8)。
  16. 『風土記稿』51-大住10。
  17. 『相模大山街道』(大山阿夫利神社編、1987年)に全資料が掲載されている。
  18. 小島瓔禮『神奈川県語り物資料-相模大山縁起-(上)(下)』(神奈川県教育委員会、1970・1971)、佐伯英里子「大山寺縁起絵巻小考」(『平塚市文化財調査報告書』第31集、平塚市教育委員会、1995年)、鈴木良明「県立金沢文庫所蔵の大山寺関係資料について」(『再発見大山道調査報告書』、伊勢原市教育委員会、2008年)。これらの論考は、小稿を作成するにあたって裨益するところ大であった。
  19. 仮名本には平塚市博物館本・伊勢原市教育委員会本・藤沢市教育委員会本・町田市勝楽寺本・大山寺本・内海家本(2冊-絵巻・詞書のみ)・阿夫利神社本・手中本・内閣文庫本・東大史料編纂所本・金沢文庫本・個人本(奈良氏)の13本が、真名本には大日本仏教全書本・平塚市博物館本・内海家本・續群書類從本(第27輯下)・阿夫利神社本・大山寺本・町田市勝楽寺本・静嘉堂本・宮内庁書陵部本・東大史料編纂所本・新編相模國風土記稿本の11本がある。
  20. 『大山の信仰と歴史』(平塚市博物館、1987年)と佐伯氏前掲論文に、全体の写真版と釈文が掲載されているが、前者にはやや誤読が見受けられるのが残念である。
  21. 東学坊・宝蔵坊・繁盛坊・祐泉坊はそれぞれ、「天明六年(1786年)大山社稷丸裸」(『市史』資 古代・中世20)に登場する。候人・承仕は別当八大坊の山上・山下の寺務奉仕者のこと。
  22. 大江親通著、保延6年(1140年)成立。七大寺の巡礼見聞録。『校刊美術史料』所収。
  23. 『新訂増補 国史大系 第31巻元亨釋書』巻第2彗解1(『市史』資 古代・中世447)。
  24. 『續々群書類從』宗教部、『大日本仏教全書』、筒井英俊校訂『東大寺要録』第1章本願章に掲載されている良弁僧正伝所収。
  25. 平康頼著、成立年未詳。『續群書類從』雑部、『大日本仏教全書』所収。
  26. 天文5年(1536年)制作で上・下2巻、作者不詳。
  27. 松本信道「漆部直伊波と染屋時忠―良弁伝研究の一助として―」(『秦野市史研究』第2号、秦野市史編さん委員会編、1982年)は、両者の関連史料を介して丁寧に検証している。
  28. 『大日本古文書 東大寺文書』之三、天平宝字5年(761)正月28日付588号文書。
  29. 岡田精司「律令的祭祀形態の成立」(『古代王権の祭祀と神話』に所収)。
  30. 圭室文雄「『大山不動霊験記』に見る大山信仰」(『郷土神奈川』18号、神奈川文化資料館、1986年。後に同編『大山信仰』に所収〈民衆宗教史叢書22、雄山閣、1992年〉、同「伊勢原市域における大山信仰―『大山不動霊験記』を中心に―(『伊勢原の歴史』第2号、伊勢原市史編集委員会編、1987年)。小稿作成にあたり、大いに示唆を受けた。記して、謝意を表したい。
  31. 心蔵は実在の人物で、海老名市上郷の大山講中所蔵の銅製不動明王坐像銘に「寛政八年(1796)丙辰六月吉日大山寺養智院隠居心蔵開眼口」とある。厚木市飯山金剛寺大師堂の寛政年間建立の地蔵尊5体の内の3体にも「建立者養智院隠居心蔵」とある。
  32. 出雲寺は、同じ上方出身で江戸に進出した須原屋茂兵衛と並ぶ老舗書物問屋で、元禄11年(1698)に幕府の御用達町人(書物師、現東京都新宿区左内町に居住)となり、幕府の書物方に属して、紅葉山文庫の運営に当たるほどに躍進した。和泉(文五郎元孝ともいう)の代以前から『武鑑』等の板元を巡って競合し、最終的には須原屋に板権を譲った。西村源六は江戸馬喰町2丁目(現東京都中央区日本橋馬喰町)に居住し、元祖は西村屋傳兵衛(与八)を名乗った。藤實久美子『江戸の武家名鑑―武鑑と出版競争―』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー257、2008年)。
  33. 癩病は症状が進むと、神経系統が侵され、毛細血管に血液がじゅうぶんにいきわたらなくなり、皮膚に結節・斑点などができ、顔や手足などの目立つところが変形したり不自由になったりすることがあった。長い間、有効な治療薬がなく、不治の病気と考えられていた。しかし、明治6年(1873)、ノルウェーの医師アルマウエル・ハンセンによって癩菌が発見され、今日では「ハンセン病」と呼ばれるようになった。その後、この病気は伝染性が微弱なこと、遺伝性のないことが明らかにされ、さらに昭和22年(1947)にアメリカで特効薬プロミンが開発され、他の薬の併用によって完治するようになり、インド・インドネシア・中国等一部を除いては、完全に世界から撲滅されつつある。
  34. 「借金は盆に戻らぬと山へ逃げ」とか、「借金が微塵積もって山へ逃げ」等。根本行道『相模大山と古川柳』(東峰書房、1969年)。
  35. 現在、伊勢原市教育委員会文化財課は、「再発見大山道事業」と銘打って、市内の歴史解説アドバイザーの方々のご協力を仰ぎ、大山道標の悉皆調査を実施中である。

〔付記〕

今回の小稿をまとめるに当たって、伊勢原市教育委員会文化財課安藤洋一氏並びに大山寺に格別のご高配をいただいた。記して謝意を表したい。

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【資料1】心蔵著『大山不動霊験記』全十五巻目録(寛政4年〈1792〉刊)

第一巻

第1話 開山良弁僧正略伝

第2話 中興開山願行上人略伝

第3話 大山寺造営年時事

第4話 御代々御朱印被成行事

第5話 御祈祷年中行事

第6話 大山寺事紀

第二巻

第7話 相州寺田縄村吉祥院三明和尚利剣ヲ呑テ智恵ヲ得シ事

第8話 同国矢崎村円応寺弟子見明同ク智恵ヲ祈リテ得タル事

第9話 下野国赤見村義右衛門石尊ヨリ迎ヘシ木太刀ノ事

第10話 同国同村平内途中ニテ金子ヲ感得セシ事

第11話 武州萩曽根村ノ百姓石尊ヘ祈リテ糯稲粳ニ変ゼシ事

第12話 江戸浅草諏訪町八百屋善兵衛ガ妻ノ眼病不動ヘ祈リテ平癒セシ事

第13話 同本所亀井戸八右衛門ガ屋敷ノ畑ヨリ石尊ノ木太刀ヲ掘出セシ事

第14話 相州小田原新宿利左衛門不動ヲ信ジテ現益ヲ蒙リシ事

第15話 同所小新宿重兵衛石尊ヲ信ジテ嵐ノ難ヲ遁レシ事
附タリ、金澤ノ三島明神短冊ヲ授ケ玉ヒシ事

第三巻

第16話 相州板戸村儀右衛門不動尊ヲ信ジテ煙草ニ虫ノツカザル事

第17話 同国同所弥左衛門ガ家三代ガ間石尊参詣ヲ障リシ事

第18話 同国伊勢原伊兵衛不動不動ノ誘引ニテ石尊ヘ登山セシ事

第19話 武州豊島郡代々木村浄円盲目反シテ眼明トナル事

第20話 相州長沼村甚左衛門ガ馬橋ヨリ落テ恠我ナキ事

第21話 下野国小山町治五右衛門ガ所ヘ入シ盗人取タル物ヲ返セシ事

第22話 同人某某殿御屋鋪ニテ紛失セシ瓶子不動ヘ祈リテ出シ事

第23話 駿府清水寺通雅不動ノ霊応ニ依テ腫物癒シ事

第24話 信州ノ傳右衛門石尊ヲ信ジテ疝気ノ病平癒セシ事

第25話 武州金澤ノ庄三郎船中ニテ不動ヲ祈リテ嵐ノ難ヲ遁レシ事

第26話 相州須賀浦ノ大吉武州品川浦ニテ破船シ危キ命ヲ助カリシ事

第四巻

第27話 相州伊勢原町ノ者不動ヲ信ジテ癩病平癒セシ事

第28話 同国富岡村新右衛門ガ娘吃ノ病直リシ事

第29話 雲州ノ女不動ノ夢想ニ依テ夫ニ廻リ逢シ事

第30話 江戸六番町杉山六左衛門中風ノ病平癒セシ事

第31話 同浅草水野源助大山参詣ノ折柄道ニ踏迷シ事

第32話 甲州ノ教雄阿闍梨信玄ノ息女ノ狂心ヲ祈リテ平癒セシ事

第33話 江戸麻布ノ人大山登山セシ事ヲ望ムトイヘ共能ハザル事

第34話 江戸新吉原江戸町ノ小児ヲ以テ火難ヲ知セタマフ事

第35話 相州小田原宿ノ善四郎ガ屋ノ棟ニ石ヲ擲事

第36話 江戸青山ノ熊次郎伯叔忌服ノ中参詣セントシテ乱心セシ事

第37話 同青山五郎吉忌服ノ中参詣セントシテ脇指ヲ腹ニ突立シ事

第38話 品川宿ノ又七疫癘三日ノ間ニ癒シ事

第39話 相州萩曽根村正快房ガ祈祷ニ依テ童子蘇生ノ事

第40話 同国影取村伊之助石尊ヘ祈リテ父ニ巡合シ事

第41話 同国湯本六之助猫ニ付レタルヲ不動ヘ祈リテ退治セシ事

第五巻

第42話 江戸京橋境屋彦兵衛火難ヲ遁レシ事

第43話 同青物町ノ者木太刀ヲ負テ火難ヲ遁レシ事

第44話 下野国秋山村荘蔵ガ妻疫病平癒ノ事

第45話 房州平館村傳左衛門ガ娘乱心平癒ノ事

第46話 上野国桐生与右衛門途中ニテ石尊ノ御櫃ヲ得タル事

第47話 相州柳島伊左衛門ガ手下ノ者危命ヲ助リシ事

第48話 同煤谷村九兵衛孫ノ痢病平癒セシ事

第49話 江戸湯島木工右衛門ガ男眼病平癒ノ事

第50話 奥州小名ガ濱ノ總助ガ信心ニヨリ大漁ノ事

第51話 相州板戸村源八生身ノ不動ヲ拝セシ事

第52話 江戸白銀町長五郎ガ子共疫癘癒シ事

第53話 下野国小山町ノ少人口癖ノ病痊リシ事

第54話 奥州岩城ノ甚助虚勞ノ病平癒セシ事

第六巻

第55話 下野国小山町甚八ガ信心ニヨリ小児蘇生ノ事

第56話 同州絹屋猶右衛門ガ家ニ疫神来リテ皈リシ事

第57話 同人我聟ニ代継ノ一子ヲ祈リテ得タル事

第58話 常州寄居町ノ治助石尊ヘ祈テ牢舎許サレシ事

第59話 武州竪石村喜傳治途中ニテ金印ヲ得タル事

第60話 相州マダラミ村藤兵衛大山参詣ヲ得ザル事

第61話 同所市平大豆ノ虫ヲ祈リシ事

第62話 江戸浅草清兵衛登山ノセツ妻女死セシ事

第63話 駿州落合村半左衛門ガ所ニテ木像ノ地蔵蕎麦ヲ喰給ヒシ事

第64話 相州愛甲郡宝積寺ノ小僧火事ノ節地蔵菩薩ヲ火中ヨリ出セシ事

第65話 同国矢崎村甚五左衛門ガ信心ニヨリテ鯉魚ノ眼玉舎利ト成シ事

第七巻

第66話 信州善光寺如来ノ御供舎利ニ成シ事

第67話 常州徳川村慈得院ノ火事ニ石尊ノ木太刀焼ザル事

第68話 武州矢元村定右衛門ガ不動尊ヘ納シ十二銅ヲ返シ給ヒシ事

第69話 相州恩馬村下河内村清田泰運四十二ノ厄除ヲ祈リテ大山ヘ月参セシ事

第70話 甲州鶴(都留)郡ノ女蛇ノ難ヲ遁レシ事

第71話 画像ノ不動霊験ノ事

第八巻

第72話 相州高座郡大谷村五兵衛ガ息重キ疱瘡故不動ヲ祈リ而平癒セシ事

第73話 相州大住郡吉澤村幸八眼ニトゲノ立タルヲ不動ヘ祈リ癒タル事

第74話 相州恩馬ノ郷居合村久兵衛水ニ溺レ死シタル事

第75話 相模国善波ノ太郎石尊ノ霊応ニヨリテ八幡宮ト崇メラレシ事

第九巻

第76話 木像ノ不動火災ニ焼給ハザル事

第77話 相州沼目村妙眼盲目変ジテ眼明ト成シ事

第78話 雨降ノ神社焼失ノ事

第79話 相州中里村由松ガ身替ニ立給ヒシ事

第80話 相州茅ヶ崎村金左衛門ガ妻乱心不動尊ニ祈リテ平癒セシ事

第十巻

第81話 曽我兄弟不動ヘ願書ヲ捧ゲテ親ノ敵ヲ討シ事

第82話 相州栗原村孝全法師父ノ悪行ヲ悲ミ不動ヘ祈リテ止メシムル事

第83話 相州飯泉村徳右衛門不動ヘ祈リテ正念往生セシ事

第84話 常陸国大竹村ノ寛蔵石尊ヘ祈リテ中風ノ病平癒セシ事

第85話 相州板戸片町孝順比丘尼断食往生ノ事

第86話 相州厚木町荘左衛門腫物ヲ悩ミ不動ヲ祈リテ癒シ事

第十一巻

第87話 武州野津田村甚兵衛カタハナル子ヲ持不動ヘ祈リテ痊リシ事

第88話 武蔵ノ府中安右衛門ガ姪ニ野狐ノ託シヲ不動ヘ祈リテ放チタル事

第89話 武州傳七片足ノ腫タルヲ不動ヘ祈リテ痊リシ事

第90話 同国同所新六ガ妻ノ眼病不動ヘ祈リテ平癒セシ事

第91話 相州荻野宿ノ伴七ガ家ニ天狗ノ来リシ事

第92話 武州府中ノ安養寺大(第)六天ノ森ノ木ヲ伐テ祟リヲ受シ事
附タリ、二季ノ彼岸ノ事

第93話 相州長軒(名古木)村市五郎ガ乱気不動ヲ信ジテ平癒セシ事

第94話 常陸ノ国ノ人蛇ノ難ヲ遁レシ事

第95話 武州小山村七郎右衛門ガ母腰ノ立ザルヲ不動ヘ誓ヒテ痊リシ事

第十二巻

第96話 相州平間村喜兵衛ガ娘ノ持病ノ虫不動ノ羂索ヲ呑テ平癒セシ事

第97話 同人病犬ニ逢テ危難ヲ遁レシ事

第98話 下野国ノ者天狗ニ倡ハレテ石尊ヘ参詣セシ事

第99話 中仙道新助ガ家ニ盗人ノ入タルヲ石尊ノ金印知セ玉ヒシ事

第100話 武州中村幸次郎天狗ニ誘ハレ諸国ヲ偏(遍)歴セシ事

第101話 武州駒込吉祥寺会下ノ僧盗賊ニ取レシ物ヲ取戻セシ事

第102話 相州岡田村一徳法師正念往生ノ事

第103話 相州田名村ノ小児腫物不動ヘ祈リテ痊シ事

第104話 同小田原領ノ者勘当セシ子ノ在家石尊ノ木太刀ヲ得テ知シ事

第105話 同州板戸村礒右衛門ガ耕作旱魃ニ枯ザル事

第十三巻

第106話 相州山王原村明王太郎ガ事

第107話 同大概(大槻)村唐獅子鳥羽蔵ガ事

第108話 同子易町ニテ古木ノ空ニ住シ大蛇ノ焼死セシ事

第109話 同田原村林左衛門ガ一子愚鈍轉ジテ利根ニナリシ事

第110話 武州江戸本郷ノ者妻ノ積(癪)気ヲ祈リテ平癒セシ事

第111話 武州横沼村半兵衛ガ息子疱瘡平癒ノ事

第112話 相州大島村太兵衛荷物ノ請取出シ事

第113話 武州江戸片山喜六雷ノ難ヲノガレシ事

第114話 上總国ノ人ノ癩病石尊ヘ祈リテ痊シ事

第115話 相州板戸村定七ガ長持ノ蓋ニ手ノ跡顕レシ事
附タリ、青竹ノ上ヨリ真ヘトヲリ地蔵ノ形現ゼシ事

第116話 同三増村丈七夢想ヲ感ゼシ事

第117話 同厚木町佐七火災ニアフテ石尊ノ金印焼玉ハザル事
附タリ、同所勘十郎亡霊ニトラレシ事

第十四巻

第118話相州山北村次郎右衛門役(疫)病神ヲ馬ニ乗シ事

第119話同金目村平右衛門盗人ニ縛ラレタル縄不動尊ヲ念ジテ縄ノ解タル事

第120話同村治右衛門強盗ノ入タルヲ不動ヲ信ジテ追出セシ事

第121話同人畜犬ノ子ヲ大山不動ヘ納メシ事

第122話同落旌旗村利左衛門洪水ノ節不動ヘ祈リテ田地ノ荒ザル事

第123話相州水無瀬河村元七盗人三人ト戦ヒシ事

第124話江戸九鬼氏ノ家中天野直次郎乱気平癒セシ事

第十五巻

第125話 武州森ノ浦ニテ不動ヘ祈リテ大漁アリシ事

第126話 武州巣鴨原町ノ権六不動ヘ祈リテ火難ヲ遁レシ事

第127話 不動泣給ヒシ事、並ニ風モ無ニ大木ノ折シ事

第128話 下野国佐野領半左衛門疫病ヲ遁レシ事
附タリ、地蔵菩薩霊応ノ事

第129話 相州押切村五兵衛ガ母中風ノ病平癒セシ事

第130話 三州新城田町ノ権七母ノ病ヲ不動ヘ祈リテ平癒セシ事

第131話 相州塚原村ノ座頭栄春不動ヘ祈リテ眼明トナリシ事

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【資料2-1】『大山不動霊験記』における地域分析(第7話~第131話の合計125話から)

(イ)神奈川県域内の場合:

 
郡(市域)名 村名(括弧内は話数)
1.大住郡
(32話)
伊勢原市内 板戸村(16・17・51・85・115),伊勢原村(18・27),富岡村(18・27),大山町(78・127),平間村(96・97),善波村(75),沼目村(77),栗原村(82),山王原村(上糟屋)村(106),子易村(108)
平塚市内 金目村(119・120・121),矢崎村(8・65),寺田縄村(7),吉澤村(73),長沼村(20),須賀村(26),大島村(112)
秦野市内 大槻村(107),田原村(109),落幡村(122),長軒村(112)
2.高座郡
(8話)
恩馬村(69・74),萩曽根村(39),柳島村(47),茅ヶ崎村(80),岡田村(102),大谷村(72),田名村(103)
3.愛甲郡
(6話)
厚木町(86・117),愛甲村(64),三増村(116),煤ケ谷村(48),荻野村(91)
4.足柄下郡
(6話)
湯本中茶町(41),中里村(79),曽我村(81),飯泉村(83),押切村(129),塚原村(131)
5.足柄上郡
(4話)
斑目村(60・61),山北村(118),水無瀬河村(河村)(123)
6.小田原
(4話)
小田原宿(14・15・35・104)
7.久良岐郡
(2話)
野島浦(25),森村(125)
8.橘樹郡
(2話)
菅村(89・90)
9.鎌倉郡
(1話)
影取村(40)
10.津久井県
(1話)
葉山島村(76)

合計66話 大住郡(48%)、高座郡(12%)、愛甲郡・足下郡(9%)、足上郡・小田原(6%)、久良岐郡・橘樹郡(3%)、鎌倉郡・津久井県(2%)因に、伊勢原市内は18話(27%)を占め、他地域を圧倒している。

(ロ)神奈川県外の場合:

 
国名 村名(括弧内は話数)
1.江戸市中
(21話)
浅草(12・13・31・62),青山(36・37),代々木(19),六番町(30),麻布(33),新吉原(34),品川宿(38),京橋(42),湯島(49),青物町(43),白銀(52),芝(71),駒込(101),本郷(110),巣鴨(126),不明(113・124)
2.武蔵国
(11話)
下河原村(88・92),萩曽根村(八条領)(11),竪石村(59),上相原村(11),中村(100),矢元村(68),野津田村(87),小山村(95),浦和宿(99),横沼村(111)
3.下野国
(11話)
小山町(21・22・53・55),赤美(赤見)村(9・10・98),板倉村(56・57),秋山村(44),中村(128)
4.常陸国
(3話)
寄居村(58),大竹村(84),不明(94)
5.駿河国
(2話)
清水寺(23),落合村(63)
6.甲斐国
(2話)
鶴島山(70),不明(32)
7.上野国
(2話)
桐生松村(46),徳川村(67)
8.陸奥国
(2話)
小名ガ浜(50),岩城四倉浜(54)
9.安房国
(1話)
平館村(45)
10.三河国
(1話)
新城田町(130)
11.信濃国
(1話)
根井村(24)
12.出雲国
(1話)
不明(29)

合計59話 江戸市中(36%),武蔵国・下野国(19%),常陸国(5%),駿河国・甲斐国・上野国・陸奥国(3%),安房国・上総国・三河国・信濃国・出雲国(2%)殆ど大半を関東地方が占め,そのうち圧倒的多数は江戸市中である。

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【資料2-2】『大山不動霊験記』における年代分析:

 
年代 話数
建久(1190年~1199年) 1話
永禄(1558年~1570年) 1話
寛永(1624年~1644年) 1話
元禄(1685年~1704年) 3話
正徳(1711年~1716年) 1話
享保(1716年~1736年) 8話
元文(1736年~1741年) 2話
寛保(1741年~1744年) 4話
延享(1744~1748年) 4話
寛延(1748~1751年) 1話
宝暦(1751~1764年) 2話
明和(1764~1772年) 29話
安永(1772~1781年) 44話
天明(1781~1789年) 4話
寛政(1789~1792年) 10話
不明 10話

明和・安永年代(1764~1781年)で125話中の73話を占め(全体の約58%)、この時期は大山信仰の全盛期とも一致する。

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【資料2-3】『大山不動霊験記』における登場人物の分析:

(a伊勢原市内,b神奈川県内,c県外)

 
職業 人数 割合 a b c
百姓 57人 47.5% 6人 29人 22人
町人 20人 16% 3人 2人 15人
僧尼 15人 12% 3人 5人 7人
漁民 8人 6.4% 1人 4人 3人
商人 6人 5% 1人 1人 4人
職人 6人 5% 2人 1人 3人
武士 6人 5% 1人 2人 3人
修験者 1人 0人 0人 1人
侠客 1人 0人 0人 1人
旅人 1人 1人 0人 0人
役人 1人 1人 0人 0人
医者 1人 0人 1人 0人
合計 123人 19人 45人 59人
不明 2人

登場人物として大半が百姓階層、ついで町人・商人・職人などの都市民と思われる者が圧倒的多数を占める。

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【資料2-4】『大山不動霊験記』における現世利益の内容分析:

(イ)病気平癒 45話(全体の約36%)

 
内訳 県内 県外 合計
疫病 4 4 8
眼病 4 3 7
腫物 4 2 6
狂心 2 3 5
憑き物 2 1 3
中風 1 2 3
癩病 1 1 2
肢体不自由 0 1 1
吃り病 1 0 1
癪気 0 1 1
狂犬病 1 0 1
口癖病 3 1 4
虚労 24 21 45
その他 0 1 1
合計 1 0 1

(ロ)災難除け34話(全体の約27%)

圧倒的に息災延命関係が多い。

 
内訳 県内 県外 合計
火事 3 6 9
盗難 3 3 6
水難 5 0 5
虫害 4 0 4
毒蛇 1 2 3
落雷 0 2 2
怪我 1 0 1
1 0 1
その他 3 0 3
合計 21 13 34

(ハ)祟り

9話(県内3県外6/全体の約7%)

(ニ)その他 37話(全体の約30%)

 
内訳 県内 県外 合計
被盗品回復 2 3 5
智恵獲得 3 0 3
不明者発見 2 1 3
正直・信心 0 2 2
大漁 1 1 2
正念往生 2 0 2
仇討ち成就 1 0 1
蘇生 0 1 1
死体発見 1 0 1
樹木の生長 0 1 1
得心 1 0 1
正気回復 1 0 1
嗣子誕生 0 1 1
入牢回避 0 1 1
諸国遍歴 0 1 1
迷い道判明 0 1 1
不明 4 6 10
合計 18 6 37

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