第1回かながわパラスポーツフェスタ2017 中澤吉裕監督講演会「一緒にできる」

掲載日:2018年1月10日

概要

 
中澤監督

講師 中澤 吉裕氏

リオ2016パラリンピック車いすテニス日本代表チーム監督、

ロンドン2012パラリンピック車いすテニス日本代表チームコーチ、

(一社)日本車いすテニス協会日本代表チーム監督

○はじめに
私の今日お話するテーマは「一緒にできる」です。私のやってきたことを皆さんに聞いていただいて、何か感じてもらえればうれしいです。
私が車いすテニスに出会ったきっかけからお話しします。私は元々テニスのプロを目指して頑張っていたのですが、結果は及ばず、プロの選手になるのが難しいということで、指導者という道を選びました。そして、健常の選手を育て、その選手が全日本選手権に出る等の経験をしていく中、「世界で戦いたいという選手がいるので、指導してもらえないか」とテニス協会から連絡が来たのです。「選手のサポートをしてもらいたい」という話でしたが、私自身世界ツアーの経験がなかったので、非常に不安に思いました。しかし、好奇心が旺盛な私は、「やってみたいな」という思いから話を伺ったところ、選手とは「車いすの選手」であると聞かされました。

○玉澤選手との出会い
その頃は、2000年くらいで、車いすテニスというものがほとんど知られていなくて、このイベントのように知ってもらう場所も中々ありませんでした。テニスコートを貸してもらうことも大変でしたし、「コートに傷がつくのではないか」とか「怪我をした時に責任が取れない」等の色々な問題がある中で、まずは、場所を確保して練習を始めました。その時の選手が、今回の体験会を手伝ってくれる玉澤選手です。
私がなぜ玉澤選手と一緒にできたのかというと、玉澤選手と初めて会った時に、とても真剣に私の話を聞いてくれたからです。「自分が強くなるためにコーチを呼んでいるのだから、その人から何かを学び取ろう」という姿勢から、ものすごい熱意を感じ、私自身もうれしくなって「やってやろう」「この人となら何かできるのではないか」と思いました。
その頃の玉澤選手は、全日本選手権で優勝したことがありませんでした。私は今では色々と教本を書かせていただいたりするようになりましたが、その頃は車いすテニスを知りませんでしたので、自分のやっていたテニスをベースとした練習をしました。そのため、障がいの問題でバランスが取れなかった時に、背もたれに背中を付けてしまって、そこから少し怪我をしてしまったこともありました。しかし、彼のやる気と私の気持ちが上手く合致して、全日本選手権で、日本一になることができました。玉澤選手と世界に向けてということが1番のテーマでしたので、全日本選手権で勝てたことは私の中で本当に嬉かったことですし、素晴らしいことです。
車いすテニスでも、世界一を決める大会があります。玉澤選手が2004年のニュージーランド大会で3位という記録をコーチとして一緒に結果を出せた時には、抱き合って泣くくらいの感動があったことを覚えています。彼と出会って、車いすテニスのコーチになれたのは、いつも自分の中でアンテナを張っていたからです。私が日頃から心がけていることは、何か面白いことが起きたときに自分がそこに行ってみたいなと思う、アンテナをいつも持って選手と接することです。

○二條選手とパラリンピックを目指して

中澤監督2


そして、玉澤選手の次に一緒にできたのが二條選手です。彼女は北海道に住んでいて、私がナショナルチームのコーチとして普及活動に訪れた時に出会いました。その後、パラリンピック出場を目指している彼女から車いすテニスの指導者を探していると声をかけられました。それも北海道から引っ越して神奈川に住み、コーチと練習すると言われ、やるしかないと思いました。しかし、当時の彼女は健常時代に少しテニスをかじった程度で、ロンドンパラリンピックまで4年で選手を育てる大変さから、責任の重大さや成し遂げられるかという不安を感じました。そう思うと本当に失敗するので、「絶対できる」「できないわけがない」と思うようにしてロンドンパラリンピックを目指しました。しかし、日本代表枠まであと1人というところで出場できませんでした。それから、「ここからの4年間で自分たちを磨くしかない」と次の4年間を進みました。
もちろんそんなに簡単ではなく、二人とも大変なことがたくさんありました。それでも、何とか次のパラリンピックで8年越しの目標がかない、私は初の監督として日本チームを率いることができ、彼女はパラリンピックに初めて出場することができました。彼女は、シングルスでは1回戦で負けてしまいましたが、ダブルスではベスト4まで進みました。最後の試合に勝っていれば、決勝に進出してメダルを持ち帰れたかもしれません。3時間半以上の最後の戦いは、2ポイント差で負けたのです。4位ということは、良い結果だったのかもしれませんが、やはり我々には悔しさが非常に残っていて、今でも覚えています。
8年間一緒にやってきて、彼女も私も応援してくれる人達も変わり、いろんな意味で成長ができたと思います。何よりも1人のコーチとして、監督として彼女の試合を見た時に、8年間どのくらい練習したのかという結果を3時間で発揮しなければならないプレッシャーと戦っている様を見て、よく頑張ってくれたと思いました。1コーチとしては本当に辛く、もう一度チャンスがあればと思いましたが、勝負の世界にもう一度はありませんから、本当に苦しい戦いだったと思います。

○「一緒にできる」
そういった経験も、玉澤選手や二條選手と初めて会った時に感じた熱い思いが、私を動かしてくれたからこそできたと思います。それは車いすの選手だからということではありません。車いすテニスを選んだのではなく、一緒にできると思った方がたまたま車いすに乗っていただけです。私はパラスポーツを選んだのではなく、テニスが好きで一緒にやっているのが車いすのプレーヤーだったというだけなのです。
「なぜ中澤さんは車いすの方と一緒にやられるのですか」と聞かれます。色々と考えたり勉強したりした結果、人間には他者に奉仕したいという気持ちが元々あって、他者と関わるということは非常に自然なことだと気づきました。コミュニケーション不足と言われる昨今ですが、人間は赤ん坊を1人で生むことはできないという話を聞き、人間は誰かと関わりをもって生きる動物なのだなと思ったら、他者と関わることが楽しく感じるようになったからです。
次回の東京2020オリンピック・パラリンピックを応援しようという動きの中で、自分とは関係がないと思っている方もいると思います。関わることで興味を持つこともあるので、スポーツを見ることでも支えることでも構いません。この機会に沢山のスポーツに触れて、いろんな人との輪を広げていただきたいと思います。

○今一番大切だと思うこと
私が今日一番お伝えしたい「一緒にできる」ということは、元々ごく自然な関わりから始まったことで、たまたま今の状況に至っているだけです。今日という日を大事に、皆さんもアンテナを張っていけば、知らない人と繋がり、自分や相手にプラスになることもあると思います。人の目を見て挨拶をするなどの基本的なことを大事に、人との輪を広げていただきたいと思います。
話が逸れましたが、私が今一番大切だと思うことは、テニスという個人スポーツの日本チームという組織みんなで動いて勝てるチームを2020年に作ることです。また、2020年以降もパラスポーツが続くようにしっかりとレガシーを残していくために、皆さんの応援をよろしくお願いいたします。
最後に、今日は多くの皆様のおかげで、このような機会をいただきました。私自身がパラスポーツに携わるようになって、皆さんに見ていただける、感じていただける機会は非常に大切だと思いました。実際のプレーヤー達と触れ合って、何か感じていただけたらと思います。
皆さんのアクセサリと同じように、車いす一つとっても個性です。それらを見て、何かを感じて何かに生かすことはすごく大事だと実体験の中で日々思っています。2020年以降もこういった活動を継続していくことで、オリパラがしっかりと根付いていく地域づくりに私自身も貢献していきたいと思いますし、皆さんのお力をお借りして進めていきたいと思います。

 

神奈川県

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