相模川の歴史

掲載日:2017年8月1日

相模川の歴史

流れの源

 相模川の源は富士山のふもとにあります。富士の白雪が溶けて流れて、山中湖や忍野八海から流れ出した湧水が桂川(山梨県)となり、途中で道志川、中津川などの幾つもの水を集めて相模川(神奈川県)と名前を変えます。約113km、流域面積1,680平方キロメートルで、神奈川県のほぼ中央を貫流して相模湾に注いでいます。

相模川の歴史

 戦国時代には、相模川に船運が開かれ、相模川と北関東を結ぶ重要な輸送路となり、江戸時代まで相模川を横断する地点は宿場町として栄えました。
明治以後は鉄道開通と架橋によって衰退していきました。その後、都市部への飲料水の供給がきっかけで相模川が本格的に開発されるようになり、戦後まもなく多目的ダムである相模ダムが完成しました。そして、城山ダム、宮ヶ瀬ダムが建設されるなど、相模川は河川の持つ機能(灌漑、上水道、工業用水、水力発電、交通、水資源、レクリエーションなど)のそのいずれの機能も有し、昔から神奈川県の人々の生活と深く関わってきました。

相模川の姿

 平安時代のころ、相模川は「鮎河」と呼ばれていた時代がありました。春になると、遡上するアユで川が黒くなることもあったと聞きます。
夏の夜には、生きたアユをエサにウナギを釣っていたといいます。太平洋戦争後しばらくは、川で魚を捕ることを「生業」としている人たちがいました。
鵜飼いやコロガシ釣り、投網、瀬干しなどで、主にアユを採り、東京や横浜の問屋や八王子などの料亭に出荷していました。
江戸時代には、高瀬舟と呼ばれる帆掛け船による舟運が盛んで、今の小倉橋まで荷物を運んでいました。また、各地に渡し舟がありました。
相模川水系には、相模ダム、城山ダム、宮ヶ瀬ダム等の大きなダムや堰が多数あり、多くの人々が高水準の快適な生活を手に入れるため農業用、工業用、飲料用に大量に水を取っています。
 このため、平常時の川の流量を減少させ、昔の川の姿を大きく変えてしまいました。
これからは、我々が水を大量に利用することにより、都市の便利さや安全とひきかえに昔の川が持っていた平常時の本来の川の姿を失ってしまったということを理解する必要があります。

魚の危機

 魚から見るとどうでしょう。魚の歴史(チョウザメは2億年から4億年、メダカは100万年)は人類(数万年)よりはるかに長いものがあります。つい最近(50年ほど前)までは、今よりはるかに自然が豊富で、魚の数や種類は多かったと思われます。それが、戦後の高度経済成長に伴う都市化の進行で河川改修、水質汚濁等の面からみると魚の生息環境は急激に悪化してきました。
 支流では住宅や向上が増え、護岸がコンクリートで固められ(三面護岸)、絶滅していった魚(ミヤコタナゴ、ヤリタナゴ、タナゴなど天然域絶滅種とゼニタナゴ、スナヤツメ、メダカなど絶滅危惧種)もいるだろうし、いてもやっと生きながらえているだけで絶滅寸前(単純な、限られた魚種組成、数)に追い込まれています。
本流を川の上流から下流に向かって歩くと、そこに住んでる魚の種類が変わってきます。水の流れの状態(瀬や淵)や水温などそれぞれの魚が、それぞれに適した場所に生息し、棲み分けています。国内外から移植された移入種が殖え、昔から生息していた在来種の一部が絶滅しかかっている問題があります。
 大きなダムではその上に魚が上れません。多くの取水堰には魚道が敷設されていますが、十分機能しているとは言い切れません。このことは魚類の上下流への移動や分布、繁殖行動に影響を与えています。

これから

 これからは、川をいろいろな意味で再生させたり蘇らせたりする循環型の川づくり(水源涵養のための森林の保全、生物の多様な生息・生育環境に配慮する多自然型川づくり)を進める必要があると思います。 
 内水面試験場は、調査研究を通じて、これらの課題に取り組んでいきます。
神奈川県

このページの所管所属は 水産技術センター内水面試験場 です。

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