公文書館だより 第26号

掲載日:2011年12月21日

 

被災公文書レスキュー事業

被災した文書をもう一度蘇らせる陸前高田市の公文書修復レスキュー始動

 「自分にできることは何か」──あの3月11日から、そんな想いを胸に問わずにいられないという方がとても多いのではないでしょうか。その一人ひとりの想いが連鎖反応を起こし、現在でもさまざまな形での“支援”という動きを生み出し続けています。

 当公文書館にできる支援として、「被災公文書レスキュー事業」が10月に始動しました。これは、東日本大震災で被災した岩手県陸前高田市の行政文書の修復を行う支援事業。津波による浸水や土砂で傷んだ文書約1,200冊を3回に分けて当館へ運び出し、主に土砂などの汚れの除去や乾燥処理などを施します。作業は10月から始まり、修復が完了した文書を来年3月中旬頃に同市へ返却する予定。作業に当たるのは当館職員をはじめ、新たに雇用された非常勤職員12名で、この中には神奈川県へ避難している被災者も含まれています。

 津波発生当時、陸前高田市役所庁舎には4階付近にまで水が迫りました。ほとんどの文書が流失してしまった中で、拾い集めることができたものが、現在同市の旧矢作小学校に保管されています。それらの文書を運び出すため、震災から約7ヶ月が経った11月中旬に作業員が現地へ入りました。文書の状態を確認したところ、カビが発生しているものや、泥が多く付着するものなどもありました。中には乾燥しきっておらず、多少湿っているために紙と紙が固着してしまい、一枚ずつめくることができなくなっているケースも見られました。そこで、それぞれの文書の状態によって分類をし、応急処置として表面に付着した土砂の一次的な除去(ドライクリーニング)を実施。その作業を終えて、現地からの第一回目の運び出しとなった今回は400冊を持ち帰りました。その際には、独自に放射線量の測定も行い、問題がないことを確認した上で行っています。

 市の行政上、今後必要となる重要な書類を「もう一度きちんと使えるようにしたい」という陸前高田市の要望に応えるためのレスキュー。再び訪れる被災地の春に間に合うようにと、修復作業は現在も進行中。今後の活動にもぜひご注目ください。

 集じん機を使った除去作業被災した公文書

          集じん機を使った除去作業                 被災した公文書

   


企画展示

「鉄道がかさねた日々」

開催期間:平成23年10月21日~12月18日

 幕末の横浜、明治時代以降の神奈川県は鉄道との関係が深い地域です。 

 幕末にペリー艦隊から将軍への献上品としてミニ鉄道がもたらされたのは横浜村の応接所でした。

 明治の初め日本最初の鉄道は新橋・横浜間を走りました。その後、明治中期から後期にかけて全国的に鉄道網が整備されるなか、首都に近く、人や物資の往来がさかんな神奈川県では、東海道線・横須賀線の官営鉄道二路線のほか、私鉄も相次いで敷かれました。県内の一部の地域では路面電車も運行され、人びとの身近な足となりました。

 明治末期から昭和前期にかけては多くの私鉄が開業し、現在にいたるまでに廃止された路線もありますが、JR・私鉄の各社で営業を続けている路線も多くあります。

 今回の展示会では、そうした鉄道が伝来以来の時を刻み、かさねた日々を、当館の歴史的公文書や私文書などの収蔵資料をはじめ、他機関の資料で紹介しています。内容別のテーマは次のとおりです。

 (1)万次郎のアメリカ鉄道見聞記       

(2)鉄道伝来

(3)日本最初の鉄道

(4)東海道線佐野駅長の日々

(5)明治・大正鉄道めぐり

(6)大正・昭和私鉄めぐり

(7)満州国皇帝の臨時列車

(8)平塚空襲とあかずの踏切

(9)小田原を走った路面電車

(10)相模鉄道連続立体交差工事

(11)関東大震災の鉄道被害

(12)昭和三八年の鶴見事故 

(13)横浜市電

(14)川崎市電

  この14のテーマで駅・鉄道車両・路線・工事・事故・災害などあらゆる角度からとりあげ、資料を年代順・テーマ別に展示しました。

 そのうち「(9)小田原を走った路面電車」について紹介しましょう。 

 県西部の小田原地方に路面電車が走ったのは明治33(1900)年のことでした。国内では四番目、県内では大師電気鉄道につぐ二番目の電気鉄道でした。昭和3(1928)年からは箱根登山鉄道の路線となり、10年から小田原―箱根板橋間の営業となりました。登山電車とは別のルートで、県道と国道一号線の上を通り、全長2.4キロメートルを片道12分で往復しました。15年に小田原に市制がしかれると、小田原市内線と呼ばれました。

 下左の写真は専用軌道と併用軌道(道路上の線路)の境目を写した写真です。踏切警報機が写っていることから下右の写真の公文書で撮影された場所も年代もわかりました。場所は箱根板橋付近で、年代は県が踏切警報機の設置認可を決裁した28年7月以降でした。

 小田原市内線は定時運行と安全確保で市民の足として支持され、黒字経営でした。ところが県から国道一号線と県道の改修にあわせて小田原市を介して廃止を要請されます。県としては改修後の国道・県道は自動車を優先し、路面電車を走らせない方針だったのです。会社としては廃止に消極的でしたが、県と市から道路法にもとづく補償料が支払われる条件で、31(1956)年5月31日をもって廃止されました。東京都や横浜市では路面電車の路線が拡張される一方で、小田原市街から路面電車が消えていきました。

 

 1級国道1号線小田原市内舗装工事踏切警報機付近

          1級国道1号線小田原市内舗装工事             踏切警報機付近平面図               
             (請求記号K514-7-0002)              (請求記号20-10-2-804)



所蔵資料紹介

歴史的公文書

「昭和25年度 県民歌関係綴」(請求記号BH6―240)
「昭和43年度 県民歌(一部改訂及び交響曲〝神奈川〟)」(請求記号BH14―4―2)

  神奈川県に「光あらたに」という県民歌があるのをご存知でしょうか。昭和24年11月に一般募集され、翌年4月に制定されています。1,677点の応募から選ばれた高校教諭の作品に詩人が補作し、作曲家が曲を付け発表されました。

 昭和25年度の文書には、新聞への募集広告や応募・審査結果の報告、県民歌制定式の開催等についての文書が綴られています。採用作品の他9名の入選作品や補作者の解説もあります。学校や報道機関、映画館等にレコードを配布するなど大々的に普及に努めた様子が伺えます。

 ところがその十数年後、歌詞の一部改定の話が持ち上がります。昭和43年度の文書に記されています。四番の歌詞が時世にそぐわないので検討するよう知事から指示があったのです。「鎚の響よ 黒けむり」の部分が公害問題を連想させると話題になったようです。作詞・補作・作曲の三者に意見を聞き改訂へ調整しましたが、最終的には現行どおりとなりました。そして部長会議で「刊行物等に掲載、合唱する場合は三番までとし、四番は省略する」ことになり、四番は幻の歌詞となったのです。

 また、スクェア・ダンスとフォーク・ダンスの振付も作られました。曲調や譜面も数種類あったようです。現在、県民歌は県のホームページから聴くことができますが、歌は一番だけの収録となっています。

 歴史的公文書には、時に表舞台に出てこない話が隠れています。ご覧になってみてはいかがでしょうか。

 県民歌

 


古文書資料

武蔵国橘樹郡下菅田村川名家文書

 今回の公文書館だよりが「被災公文書レスキュー」から始まりましたので、それに関連した資料を一つ紹介します。

 川名家文書は旗本酒依氏の知行地の一つ下菅田村(横浜市神奈川区)で名主等を勤めた川名家に伝存した文書群で、享保15(1730)年から明治43(1910)年までの文書326点で構成されています。

 写真の「記録帳」と表題のついた文書は平右衛門の所用日記で、壱番から三番まで三冊【弘化5(嘉永元/1848)年から安政4(1757)年】が残っており、この「記録」の内容は平右衛門家の私的な事柄から、地頭所とのやりとり、米相場・銭相場、異国船の渡来、訴訟関係など広範に亘ります。また、江戸の大火、小田原大地震、大山の火事など災害に関するものも多く記載されています。特に小田原大地震(嘉永6年2月2日)は、平右衛門の倅与四郎が伊勢参宮の帰路吉原宿から原宿間で遭遇したこともあり、箱根山へ向う道が通行止めになったため芦の湯へ廻ったがこの山中でも度々余震にみまわれたこと、大磯近辺でもほとんどの家が裏庭や畑などに野宿していたことなど詳しく記されています。また、嘉永7(安政元)年11月4日の地震は山西三島宿から東海道、駿河、遠江、三河、さらに尾張から四国まで、およそ20か国に及ぶ大地震であったこと、伊豆下田湊では海中から津波が押し寄せ、家が1,000軒程残らず海中に引き込まれたこと、さらに修理のため停泊中のロシア船(プチャーチン乗船のディアナ号)が津波に巻き込まれて破船になったことなどが生々しく記されており(写真左)、津波の恐ろしさがひしひしと伝わってきます。 

武蔵国橘樹郡下菅田村記録帳三番 記録帳

 「武蔵国橘樹郡下菅田村記録帳三番」/冊4  (資料請求ID:2199514004)

 

館長のひとこと

転換期にある公文書館                                        館長  下元 省吾

 歴史には、後から振り返って見てはっきりと分かる大きな転換期があります。今年、2011年は、当公文書館にとってもそうした年になるのかもしれません。

 3月11日の東日本大震災は、これまでの公文書館のあり方にも少なからぬ課題を提起しました。巨大地震とその後に発生した巨大津波は、多くの尊い人命とともに、貴重な公文書をも一瞬にして飲み込んでしまったのです。地震と津波の二重の被害の前に、行政はなす術がありませんでした。

 発災から8ヶ月が経った今、被災地の本格的な復興に向けて、被災した公文書の修復が不可欠となっています。しかし、被災地の自治体は膨大な復興業務に追われ、公文書の修復にまでなかなか手が回らないのが実情です。そうした中で、少しでもお役に立てないかと始めた事業が「被災公文書レスキュー」です。できるだけ多く修復したいと考えていますが、当館で扱うことができるのは、膨大な量のほんの一部にしか過ぎません。今後、全国にこうした動きが広がっていくことを願っています。

 この経験は、これから起こりうる各地の大災害に対しても応用できる貴重なノウハウとなります。これからは、公文書館においてもしっかりとした危機管理能力が求められます。当館でも震災や洪水など様々な災害に対してどんな備えが必要なのか改めて点検し、取り組みを始めているところです。

 ところで、震災の混乱の最中、今年4月に「公文書管理法」が施行されました。これでわが国もようやく、行政文書を作成時から保管まで一貫して管理する体制が整ったわけです。これは、これまで公文書管理の先進県を自負してきた本県にとっても、大きな転換を迫る事件と言っていいでしょう。行政文書のライフサイクルの中で公文書館が果たすべき役割をもう一度見直すことが必要です。その中には、急速に進んでいる電子公文書化への対応も欠かせません。

 開館から18年を経て、今まさに未来に向けてさらにもう一歩を踏み出す時期が来ています。後から振り返って見て、今年、2011年が当館にとって大きな転換期となったと言われるように、私も微力ながら全力を尽くしたいと考えています。

     

神奈川県

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