公文書館だより 第2号

掲載日:2011年3月15日

戦国時代の印判

 戦国領主は、領内に掟書、制札など、同一内容のものを一時に多数発給する必要が多くなったため、筆と墨で丹念に書かなければならない花押(書き判)を、簡便なハンコ(印判)に代えた文書(印判状)の形式を多用するようになりました。
 虎の印は、北条早雲の子である氏綱から氏康、氏政、氏直と四代にわたり使用された代表的なハンコです。印面は幅7.7センチの正方形の枠内に「禄寿応穏」の四字、その上部に虎がうずくまっている姿が彫ってあり、豊臣秀吉による小田原征討で北条家が滅びるまで使用されました。
 また、上杉謙信の「地帝妙」印は、上部に獅子が居り、甲斐の武田信玄は、円の中に龍を描いた「龍丸の印」を使用するなど、戦国武将は勇猛な動物の意匠のハンコを好んだようです。
 秀吉は、北条氏を討って天下人となりましたが、使用したハンコは直径4センチ足らずの丸い印で、大きさでは北条氏の「虎の印」とは比べものになりません。しかも、これは拾ったハンコだという話も伝わっているほどで、何か他の印(?)を転用したものらしく、印面も文字としては判読できません。秀吉は数多くの印判状をこのハンコを用いて発出しており、物事にこだわらないかっ達でひょうきんな性格がこんなところにも表れているようです。

北条家朱印状(部分)〈(永禄9年)8月20日〉豊臣秀吉禁制(部分)〈天正18年4月〉
    北条家朱印状(部分)〈(永禄9年)8月20日〉              豊臣秀吉禁制(部分)〈天正18年4月〉
    豊前氏古文書(当館所蔵)                        厚木市・長野家寄託文書


戦後かながわの出発ー戦後50年の節目にあたりー

1 占領初期点描

 昭和20年8月15日、連合国への無条件降伏で敗戦を迎えた日本。「そは事実か?この耳は、この心は直に信じ難し」「国民粛然襟ヲ正シ、感無量也」。『横浜の空襲と戦災2』に載せられた市民の日記です。
 ダグラス・マッカーサー元帥。昭和17年のフィリピン撤退の怨念を象徴するかのような愛機「バターン号」での厚木着陸と時を移さぬ横浜進駐。臨時総司令部(米太平洋陸軍総司令部)は横浜の税関内に設けられました。一方、横須賀などにはニミッツ提督らの米海軍部隊や海兵隊が上陸していました。
 戦争指導者たちは日本国民の手によってではなく、戦勝国の軍事法廷の場で裁かれました。また、日本軍の戦争責任を背負う形になった一部の兵士、軍属らもポツダム宣言第10項の規定を根拠に被告となりました。
 昭和20年12月18日、横浜地方裁判所では、国内で唯一、GHQの「戦争犯罪被告人裁判規定」にもとづくBC級の軍事法廷が、米第8軍の管理下に開設されました。

マッカーサー元帥(中央)とアイケルバーガー第8軍司令官(右)の画像捕虜収容所満島分所の被疑者を審理する軍事法廷の画像
    マッカーサー元帥(中央)とアイケルバーガー第8軍司令官(右)   捕虜収容所満島分所の被疑者を審理する軍事法廷

 県民の生活は苦難の連続でした。「続く主食の欠配で、朝食と御弁当しか作れず。それも朝、家の者はないのだ」「お米もとうとう今朝で終わってしまい、夕方どうしようかと考えて居たら三時頃、パンの配給あり」。
 米の消費県の神奈川では遅配は1ヵ月近くに及ぶ時もあり、県庁は連日のように米よこせのデモに取り巻かれたといいます。21年5月1日の戦後初のメーデーは、横浜地区では野毛山が会場となり、県庁までデモ行進を行い、食糧危機突破などで気勢を上げました。
 配給だけでは食べていけません。経済統制下ではありましたが、ヤミ市・青空市場には様々な物が並びました。食料品は当然のこと、転換工場が内職で作る鍋、釜なども工員を通じて流された模様です。
 餓死者が出るような困窮生活でしたが県民はたくましく敗戦・占領の混乱期を生き抜き、復興の足掛かりをつかんでいきました。

野毛山の高射砲陣地跡で行われた戦後初の横浜のメーデーの写真露店の画像
    野毛山の高射砲陣地跡で行われた戦後初の横浜のメーデー     露店の人気は飲食店だが、日用品などを売る店も見られた

2 象徴天皇制と巡幸

 昭和21年1月21日付けの官報号外で詔書が出されました。いわゆる「天皇人間宣言」とよばれる詔書です。詔書は天皇の神格化の否定のほかに「朕ハ爾等(ナンジラ)国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚(キュウセキ)ヲ分タント欲ス」そして「朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾(コイネガ)フ。」と結んでいます。それからまもなく、この年2月19、20日両日の神奈川県を皮切りに天皇の巡幸が開始されました。マッカーサー元帥も巡幸は、人間天皇を国民に知らせる良い機会ととらえていたようです。
 2月19日、5台の車で昭和電工川崎工場、鶴見の日産重工業本社工場、県庁、稲荷台国民学校跡の戦災者用の共同宿舎、神奈川区大口町のヤミ市を視察して帰京しました。

昭和電工川崎工場の写真(昭和21年2月19日)神奈川県庁前で巡幸を待つ人々(昭和21年2月19日)の写真
    昭和電工川崎工場(昭和21年2月19日)               神奈川県庁前で巡幸を待つ人々(昭和21年2月19日)

 2月20日、お召し列車で久里浜着、浦賀引揚援護局、国立久里浜病院、鴨居援護所、馬堀援護所を視察して帰京。これが戦後初の巡幸でした。
 半年前までは神であった天皇が数メートル前にいます。じかに話しかけることもありましたが、天皇も国民もお互いにぎこちない会話でした。天皇は宮廷用語の中で暮らしてきました。エドワード・ベア著『裕仁天皇』下巻によると普通に話す言葉が出てこなかったようで、後日侍従に「何と話して良いのか困った」と漏らしているようです。しかし、子供に対しては違っていました。行く先々で子供達の歓迎を受けて天皇の相好も崩れています。日本の将来を託す期待の笑顔なのでしょうか。あるいは、6人の子供の父親としての笑顔なのかもしれません。よく話しかけられ、それも、子供にも分かる言葉をと心掛けていたようです。
 昭和21年5月に始まった極東国際軍事裁判(東京裁判)や退位問題が巡幸に影響を与えた時期もありましたが、巡幸は昭和29年8月の北海道まで続きます。この間に、象徴天皇制は国民のあいだに確立されていきました。

横浜市内視察(昭和21年2月19日)の写真横須賀・鴨居援護所(昭和21年2月20日)の写真
     横浜市内視察(昭和21年2月19日)                     横須賀・鴨居援護所(昭和21年2月20日)

 当館では、ここに掲載した写真の他に米国の国立公文書館の占領期の県内写真約650枚を複製して所蔵しています。ぜひご利用下さい。

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随想

踊る人々 大森 黎

その日は朝からよく晴れていた。

「助かりました、予報がはずれて」

 早朝の二宮駅で、ビデオカメラを抱えたディレクターが、リポーターの私を見るなり繰り返した。行く先は足柄上郡中井町の県立中井やまゆり園。開設されて23年、最高齢69歳、137名の知的障害者が暮らす施設である。まもなく建て替え工事が始まるので、今度で11回を数える「やまゆり祭」が暫く休止になるらしい。ならばその一端でも伝えられてたと、テレビ神奈川『日本大通り情報―ともしびスポット』の取材であった。
 中庭には既に紅白の幕が張られ、舞台も作られていた。青い法被姿の職員たち、オレンジ法被の地元商店会、同じくオレンジ色エプロンのボランティアたちが、子供らに風船を手渡したり、バザーの品を積み上げたり、模擬店を準備したりで大忙しだった。1000人の人出を見込んでいると聞いた。
 10時の開会式の頃には、やきとり、おでん、やきそばなどの匂いが流れ、町長さんや議員さんの挨拶の間にも、「食べたいよう、待てないよう」と甘える声―思わず振り返れば、青法被の若い人に笑ってなだめられている初老の男。母親に会うのは久しぶりなのか、抱きついたまま離れない女もいた。パイプ椅子が並べられた会場は満席で、誰も彼もみんな、陽をいっぱいに浴びていた。
 舞台では、小学生も交えての地元お囃子保存会の笛、太鼓。その祭囃子に乗って、手づくり御輿も登場。続いての民謡の踊り手は、衣装も化粧も美しく仕上げた主婦グループで「やまゆり祭」の舞台は、日頃の成果を発表できる格好の場でもあるようだった。
 車椅子からずり落ちかけながらも手拍子三昧の人、何故か右斜めに半身を傾けたまま、サンダルを蹴立ててひたすら歩く人もいた。
 尾鷲節が始まったあたりからだったろうか、登山帽をまぶかにかぶった小柄な人が、舞台の前の広場で踊り出した。白い衿をのぞかせた藤色のスェーターにだぶだぶの青いズボン、手には萌黄色の風船。ディレクターがカメラを向けると、風船をゆらゆらさせながら近づいてきて深々とお辞儀をした。私もあわててお辞儀を返した。
 しののめ節、斉太郎節とプログラムが進み、やがて舞台は花笠音頭。広場には、和服に着替えた女子寮の人々が並んだ。会場のあちこちからはずんだ掛け声が響いた。その時、何処からともなく妙に単調なくぐもり声が聴こえてきた。声の主は地べたにズボンの腰を落とした老女だった。掌を揉み合わせ、目を瞑じ、念仏でも唱えているかのように、花笠音頭を歌っているのだった。永年、この園で暮らしている人なのか、訪ねてきた家族なのか、町の人なのかはわからなかった。唄が炭坑節に替っても、老女の「念仏」はつづいていた。袖ひるがえして踊る人、はね廻る人、立ちどまってはうっとりと笑みを浮かべる人―踊りの輪はいつのまにか大きくなっていた。「踊り念仏」―そんな言葉が不意に浮かんだ。
 鎌倉中期、諸国を巡り捨聖と称された「時宗」の開祖一遍智真。鎌倉入りを幕府の武士に阻まれ、弟子たちと共に片瀬の浜で始めたという「踊り念仏」。時は蒙古襲来「弘安の役」の翌年である。執権北条時宗を動かして戦傷者らを救い弥陀の世界を説こうとしたらしい。片瀬の「踊り念仏」には、鎌倉武士も貴人も、躰に障りのある人々も集まって、4ヶ月半も続いたと『一遍聖絵』に描かれている。
 県立公文書館の展示で、承久3年(1221年)の『六波羅下知状』を観たことを憶い出した。その60年余りの後の一遍上人の救済活動を権力が押さえたという記録など、公文書館のコンピュータ検索で出て来はすまいか。
 県の福祉施策である「やまゆり計画」の名と共に、「やまゆり園」の開設や改築の記録は残るだろう。けれど「やまゆり祭」で踊る人々の熱気や、展示物の陶芸、手芸、紙工、木工班などの作品の努力の跡は、公文書には残るまい。公文書館のガラスの璧の中の、淡く色を違えて漉き重ねられたやまゆりの花の仄明かりを私は想うともなく想っていた。

「あの小さい人、男かな、女かな、おとしよりだってことだけは確かだけど……」

 腰にぴたりとビデオカメラを構え、踊りの輪の中に入っていたディレクターが戻ってきて呟いた。萌黄色の風船を高々と掲げて踊っていたその人が、また深々とお辞儀をした。今度はディレクターもお辞儀をした。

大森 黎
    筆者のプロフィール
    大森 黎(おおもり れい)

作家
NHKのテレビディレクターなどを勤めた後、脳性小児マヒの長男との交流を描いたドキュメンタリー「大河の一滴」が、読売・女性ヒューマン・ドキュメンタリー大賞を受賞。
かながわともしび財団理事、神奈川県総合計画審議会委員など。平成5年から神奈川県立公文書館運営協議会委員。著書に「横浜元町物語」ほか
神奈川県鎌倉市在住。


収蔵資料紹介

1 近代の資料(公文書)

「永代借地権ニ関スル書類」と書かれた公文書の綴りが20数冊あります。これは、かつての外国人居留地に関する文書です。
 横浜開港以降、現在の日本大通りの東側の地と山手に外国人居留地ができました。在留外国人は、明治30年代には5000人近くになり、国内の居留地の中でも最大でした。
 当時、外国人の居住は居留地の中に限られ、土地の所有も認められていませんでした。そのかわりに、日本政府が発給した地券により永代借地権を認められていました。定められた地代を払えば、無期限永久にその土地を使用することができたのです。これは、免税などの特権により土地所有よりも強い権利でした。
 明治における不平等条約の改正では、この権利の解消が重要な項目の一つでした。明治32年(1899年)の改正条約実施により、外国人居留地の制度は廃止されよしたが、永代借地権の解消はなりませんでした。
 永代借地権は、家屋税などの課税問題もからみ地方自治体にとっても大きな問題となりました。特に横浜市は大きな居留地を抱え、その問題も深刻でした。
 この永代借地を一挙に減少させたのは、大正12年(1923年)の関東大震災でした。披災した外国人永代借地権者の中から、借地の売却を希望するものが多く出ました。この機に横浜市は政府から600万円の無利子融資を受け、永代借地の買収にあたりました。しかし、この制度の完全な解消は、昭和17年(1942年)まで待つことになります。

 当館には、この永代借地権に関する大正12年(1923年)から昭和14年(1939年)までの公文書が保存されています。その中には、「英一番館」と呼ばれた、生糸や茶を取り扱ったイギリスの商社、ジャーディン・マセソン商会の書類なども含まれています。

ジャーディン・マセソン商会「永代借地権ニ関スル書類 昭和21年」(館蔵)の画像
    ジャーディン・マセソン商会「永代借地権ニ関スル書類 昭和21年」(館蔵)

2 中世の資料(古文書)
三島神社文書

 三島神社は、戦国大名 北条氏、江戸期の小田原藩主 稲葉氏等の保護を受けた関係から、北条氏綱をはじめとする北条家朱印状や稲葉正則の社領安堵判物を伝えています。また、当社の経営にあたった別當円泉坊が京都の仁和寺の法末に連なることから、慶範が法印等僧侶の位を授けられた際、仁和寺宮の令旨を得ています。さらに、天保5年林大学頭が地誌取り調べの時、円泉坊が寺社奉行所に提出した地誌御取調書上帳など江戸期から昭和期に至る史料を所蔵しています。
 これらの文書は、江戸時代には神主・別當をつとめた円泉坊が、明治元年以降はその後裔加藤氏が代々にわたって伝え、今日に至っています。その伝来の意味するところは、家督相承の印として、家の歴史を伝える貴重な史料として大切に保存されてきたからにほかなりません。
 さて、一般に「三島神社文書」と総称して呼ぶそれらの古文書は、8代将軍 吉宗の時の「相州古文書」に、11代将軍 家斉の時「新編相模国風土記稿」の編纂による「相州文書」に収録され、近代に入っては東京大学史料編纂所の「大日本史料」や「神奈川県史資料編」をはじめ市史の資料編に引用されるなどして歴史研究に広く利用されてきました。一方、当文書は、原本であることから古文書研究にも欠かせません。その二、三を紹介してみますと、

  1. 天正10年(1582年)の北条家定書と年欠の遠山修理書状とは充所の違いがあるものの両者が同筆であり、同じ所に伝来している例。
  2. 天和2年(1682年)稲葉正則社領安堵判物が、本紙・懸紙とも同紙質の奉書紙を用いている例。
  3. 中世の書状は紙2枚をとるのを本来としましたが、仁和寺宮令旨も料紙を2枚(うち1枚は白紙)としてある例

です。これらの例は、活字本ではもちろんのこと写真・影写本でもなかなか用を足すことができません。(当館寄託資料)

文書を伝えた神社と加藤家(円泉坊)の画像
    文書を伝えた神社と加藤家(円泉坊)

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コーヒーブレイク

≪空想の植物園≫の手入れをしなければ。そう、私はいきごんでいる。

 ロンドンのKEWこと、王立植物園。東京の小石川植物園。現存する名園を訪れるのは、とても楽しい。植物たちのなんという多彩さ。無から生れ無に帰る自然は、すべてに対して、根本的に無関心なのかもしれない。しかし、自然は、過剰を、行過ぎを、激越を許容する。だから、異質なものたちが出現でき、かつ共生できる。結局、自然は多様性を愛するのである。人間の世界と同様に、植物の世界にも国境は不要であり、不用である。植物はみずから動けないが、遠くへ行きたいと夢みている。仲立ちするもののおかけで、この夢は叶えられる。風媒花、虫媒花、鳥媒花があるのだから、人媒花があってもいいではないか。
 植物は新しい土地で、環境を変えるが、自己も変える。こうした植物の力量のおかけで、人間は作物を得た。植物の栽培(culture)を試み、文化(culture)を生活に取り入れた。人間は、菜食主義者といえども、植物を食べなければ生きていけないのである。私は、口舌の徒であるが、それ故にこそ、口汚くもある。子供の頃の飢えの記憶、まさに食いもののうらみが、いまも付いてまわっている。人間が食べられるものを、世界中から集めた植物園があればなと、欲ばったことを考えている。現実には、あまりに自然に反し、不可能であろう。だが、種や球根の貯蔵庫ならどうか。遺伝子情報のコンピュータ・ファイルはいかに。少くとも、文献を揃えられないか。幸い、空想の連想には制約がない。そんなわけで、家では『菜』という漫画に親しみ、職場では『食糧配給公団資料』などに目を通している次第である。

公文書館館長 後藤 仁

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読書の欄

丹羽邦男 著 『地租改正法の起源』

 本書は丹羽先生が亡くなられてから刊行されました。先生の最後の著作です。日本の近代社会成立の基盤となった地租改正の研究は先生のライフワークといえる研究でした。このテーマに取り組んだ動機を「私の少年時代の国民―政党政治を見捨て、軍部独裁を支持し、太平洋戦争に突き進んだ国民、私もまたその少国民の一人であった。…そしてこの国民は、さらに現在のわれわれへと繋がっている」と語られています。今日的な課題を念頭に置きながら研究されてきた気持ちを率直に表明しています。こうした先生の歴史への姿勢の存在が本書を日本の近代史研究にとって無視し得ない基礎的文献としています。
 なお、先生は神奈川大学教授として教育や学術研究に努めておられたばかりではなく、様々な地域の課題にも答えられようとしていました。県内の市町村史の編纂委員、神奈川地域史研究会の会長、当館の設立にあたっての公文書館構想懇話会会長などを務められました。

1995年3月 ミネルヴァ書房刊 定価3800円

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歴史を訪ねてー二俣川周辺ー

畠山重忠公碑

畠山重忠(1164から1205年)は、鎌倉武士の模範とされ、智・仁・勇にすぐれた人物と伝えられています。

畠山重忠公碑
 重忠は、埼玉県大里郡川本町の館で畠山の庄司重能の次男として生まれました。頼朝挙兵に際しては、いったん平家方に味方しましたが、頼朝へ帰服後は目覚ましい活躍をしています。その代表的なものが、宇治川の合戦・一の谷の合戦・奥州征伐であり、広く武勇の名をとどろかせました。しかし、頼朝の死後次第に権力を握り始めた北条時政の「鎌倉に異変有り、出頭せよ」という奸計にあい、鎌倉へ向かう途中、鶴ヶ峰の麓に着いた時、先に出発した長男重保が由比ヶ浜で北条氏に殺され、牧ヶ原(現在の万騎が原)に北条氏の大軍が待ち構えているとの報に接しました。しかし、時すでに遅く、決戦となり、重忠は、この地で愛甲三郎季隆の矢にあたり42歳の生涯をとじることになりました。
 この碑は、重忠没後750年を記念し、地元鶴ヶ峰と埼玉県川本村の有志により建立されました。場所は、水道道が厚木街道を横断する交差点の脇のやや奥まったところに川を背にしてあります。
(相鉄「鶴ヶ峰駅」下車徒歩3分)

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公文書館のしごと

『公文書の選別作業について』

 公文書館には「歴史資料」の収集・保存・利用という3つの大きな機能がありますが、まず、神奈川県に関する公文書・古文書等を収集することが最初のステップといえます。
 県の機関が作成し、又は受理した公文書等もその時代の様々な社会の動向を反映し、県民生活や県行政の推移などを知る上で貴重なものが含まれています。しかし、毎年、大量に作成され受理されている文書の中から歴史的に価値のある資料を選び出すことは大変な作業であり、非常に重要な仕事です。
 このため、本県では、県の機関(公安委員会を除く。)が保存している文書で行政上の観点から定めた保存期間が満了したものは、条例により一旦すべて公文書館に集めて、条例に根拠をもつ選別基準に従って公文書館の職員が責任をもって歴史的に価値のあるものを選別し、残りのものを個人情報に注意しながら廃棄する仕組みをつくりました。

そこで、その仕事の概要を紹介したいと思います。

  1. 2名が1組となって六組の作業チームを設け、組毎に担当部局を決める。
  2. 選別基準等を基に、実際に文書を見て選別する。
  3. 選別で判断に迷ったものについては、各組が集まって検討を行う。
  4. 選別されなかった文書(廃棄文書)については、他に委託(移送)し、速やかに処分(裁断し、紙資源として再生処理又は焼却)をする。
  5. 選別した文書については、データ入力票を作成し、コンピュータによる検索ができるようにする。
  6. 選別した文書の目録をコンピュータから出力して県民に提供する。

公文書館では、このように毎年入ってくる大量の文書を概ね一年以内に処理しています。

公文書の選別選別作業の画像
                                           選別作業

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ある日のレファレンスから

【質問】

閲覧室の資料はどういう規則で並んでいるのですか?

【回答】

 当館の図書資料は、大別してK資料とG資料に分かれています。
 K資料というのは神奈川県内に関する資料という意味です。神奈川県が作成した資料はもちろん、県内市町村の作成した資料、県内の歴史に関する資料などです。
 K資料はまず、地域(県全域と市町村)ごとに分類されて並んでいます。当館の場合、閲覧室の半分は神奈川県全域(地域記号0)の資料で占められています。その地域ごとに分類されたK資料はさらに日本十進分類法(NDC)に従って配架されています。この方法で配架しますと、同じ地域の同じ主題の図書が一か所に集まることになり、地域を限定して調査する人には利用しやすいものとなっています。
 G資料というのは参考資料のことで、事典・辞書、国・他県の類似機関の作成した資料などです。G資料には地域記号はありません。
 なお、古文書や公文書は別の規則を設けて分類しています。

神奈川県

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