公文書館だより 第3号

掲載日:2011年3月15日

東海道神奈川宿の絵図

「金川の台に来る、爰は片側に茶店軒をならべ、いずれも座敷二階造、欄干つきの廊下桟などわたして、波うちぎはの景色いたってよし」これは『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)の神奈川宿のありさまです。
 慶長6年(1601)東海道の宿場に「伝馬制度」が定められてから、神奈川宿は江戸日本橋を発して約7里(約27キロ)品川・川崎に次いで三番目の宿場として発展してきました。
 東海道はこの辺りで台地が現在よりずっと海辺に迫り、その坂道に沿って宿駅が発達し、町の下は中世以来の良港で、神奈川は宿場町であると同時に、港町でもありました。
 宿場は滝の橋を境にして、江戸寄りの神奈川町と、保土ヶ谷寄りの青木町とに分かれ、夫々に一軒の本陣と、神奈川町内に人馬継立場がありました。天保14年(1843)『宿村大概帳』によれば、当時の人口5793人、戸数1341戸、旅籠屋58で、街道に洽って茶屋・煮売屋・飯売旅籠が軒を連ねていました。

東海道神奈川宿絵図
(当館所蔵「武蔵国橘樹郡神奈川宿本陣石井家文書」より)


江戸時代の農民の旅 天保六年『参宮道中記』 ‐根岸村・新井家文書‐

旅へのいざない

参宮道中記の画像       行程略図 
     「参宮道中記」

 江戸参府旅行を経験したオランダ商館医のケンペルやシーボルトのいずれもが、世界の中でも日本ほど旅行の盛んな国は余りない、とその『紀行文』に書き残しました。
 とはいうものの、それほど盛んな江戸時代の旅にも、さすがに「勝手気ままなぶらり旅」という目的を求めるには中々の勇気が必要です。
 普通この時代の旅といえば、武士の公用や商用が一般的で、町人や農民が旅に出るとなると、それなりの名目が必要となったのです。
 その点で手っ取り早い名目が「社寺参詣」や施療を目的とした「湯治」ということになったわけです。
 特に「社寺参詣」では、伊勢・金毘羅・善光寺・富士山・大山・日光・成田山等の参詣に人気が集まりました。人々の中には「講」を結成し、生活費を切り詰めて、その参詣費用を積み立てたりする者も多くありました。そして伊勢参宮などは成人への通過儀礼と考えられる向きもあって、若者たちの間でも憧れの的ともなっていたのです。
 「一生に一度は伊勢参詣へ」という言葉は、民衆の信仰と旅情をさらにあおるものであったといえます。

伊勢への旅

 「天保六未年正月七日、同行四拾壱人ニ而伊勢参宮罷立候、道中附出立之儀は惣乗懸ニ而戸塚宿迄送られ申候」との記載から、この『天保六年 参宮道中記』は始まります。
 「参宮道中」の旅は当時の農村社会としては当たり前なのでしょうが、農閑期を狙って設定されていました。天保6年(1835)の正月は天候に恵まれ、元旦から晴天が続きました。横浜近隣の村々の『日記』からも出発日の7日は快晴であったことが知られています。
 天気快晴の下、心も晴れやかに根岸村を出立した一行四41人は、途中で弘明寺観世音に参詣を済ませた後、戸塚宿まで村人たちの見送りを受けました。村人の繊細な心遣いからか、ここまでの行程では一行全員が馬にまたがっての旅立ちが用意されていました。伊勢神宮の門前・宇治山田への到着までは、13泊14日を要していますが、途中に寄り道もしているので、まずまず順調なペースであったと思われます。彼ら一行が立ち寄った先は、三保の松原や久能山東照宮・秋葉山神社・鳳来山・熱田神宮等の社寺参詣が主でした。また宮宿(熱田)からは、海路で伊勢湾対岸の桑名入りするのが街道のコースとして知られていますが、一般的には旅の安全を考えた佐屋路が利用されていました。根岸村の一行も名古屋から甚目寺・津島・佐屋へと陸路をとりました。ここでようやく佐屋から船を利用し、川沿いを下り、桑名へと向っています。

『道中記』では、このあたりのことをこう書いています。

 さや くわなへ三り舟渡シ
一、八拾五文 休
是より役諸へ願ひ大舟一艚かりきりニいたし、くわなへ渡る。舟人へ酒て三百二拾四文つかハす。

 くわな宿 四日市へ三り八丁
御城海ニつき出シ有也、城を左ニ見而あがる。右の方ニ御番所有也。名物やきはまくり也。

おそらく、佐屋で昼食を済ませた後、桑名に向う大舟一艚をチャーターしたものと思われよすが、舟人への酒代を支給しているものの、貸切船賃については、残念ながらここに記載されていません。
 海に接した桑名城の景観や町の賑わい・名物焼き蛤は当時良く知られたものでしたので、この『道中記』にも書き留められたのでしょう。
 1月20日、宇治山田の伊勢御師・龍太夫宿坊に旅の一行が無事に到着しました。
 『膝栗毛』の世界では「太夫(御師)」の意味がわからずに、「竹本義太夫」の名を答えた弥次・喜多が失笑をかう場面ですが、そこは計画的に旅をしてきた根岸村の一行、当然抜かりはありません。ここで彼らは、宿坊に対して金2朱と御供代として金2朱を支払っています。翌日、伊勢外宮参拝・天の岩戸見物を済ませると慌ただしく古市町に向い伊勢内宮へ参詣、彼らに課せられた旅の目的を果たすことができました。しかし、この一行の旅はこの先まだ長く続くのです。多くの伊勢参詣者が経験したように、ここまで来た以上、目指すは畿内・西国参詣の旅ということになるわけです。

〈桑名名物やき蛤〉の絵〈海につき出た桑名城〉の絵
     〈桑名名物やき蛤〉                                   〈海につき出た桑名城〉
     『東海道名所図会』(藤沢市文書館所蔵)                      『東海道名所図会』(藤沢市文書館所蔵)


 

畿内・西国への旅

 松阪から伊賀上野を抜け、1月25日に奈良入りした一行は、大仏堂に参詣し、三笠山を仰ぎながら春日大社にやってきました。そのときの情景に圧倒されたのか、『道中記』にはこう記しています。

春日大明神其外まつし(末社)かづしれづ参詣致シ、奈良の名物とうろふ(灯龍)・しか(鹿)のかづしれづ。

 1月27七日には源義経や弁慶ゆかりの吉野に入り、28日には高野山の宿坊に到着、丸2日をかけて清願寺や奥の院まで参詣しました。旅の一行は堺の妙国寺、住吉大社、天王寺をまわり大坂に入ったところで二手に分かれ、30人ばかりが讃岐国(徳島県)に向いました。

一、九匁七分    壱人前
   ふとん付     舟賃

 『道中記』では、船中から見た明石城や屋島の姿は簡単にとらえていますが、「江戸時代版2泊3日・瀬戸内海クルージングの旅」の快適さについての記載がないのが悔やまれます。讃岐国の丸亀に上陸した一行が、象頭山・金毘羅大権現の参詣を行ったのは2月6日のことでした。

夫より金毘羅様、お山はぞうのすがたなり。
 一のとり家(鳥居) かね也

 金毘羅詣の記述は、右のようにはじまって、付近の塔中(たっちゅう=脇寺)をめぐり歩いた旨が記されています。また高尾屋という店ではめすらしく80文の昼食代を使っています。今までの昼食代の平均が65文前後ですから、相当張り込んだみたいですが、一体何を食べたのか興味深いところです。
 金毘羅詣の後は、再び瀬戸内海を渡って播磨国の室津(岡山県)へ向かいました。そこからようやく東の故郷へと足が向くのです。しかし、その帰路での見所も随分と多いものになりました。姫路城では城の見事さに驚かされたり、源平合戦や楠正成ゆかりの名所を偲びながらの山陽道を東上、山崎の石清水八幡宮参拝や京の名所見物を行ったりで、慌ただしい日程の中にもしっかりと遊覧道中を満喫しているかのようでした。

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随想

「捨てる」生活 中村れい子

 もともと「カタチあるモノを大切に遺す」というようなことは、性格的に苦手であった。しかし、それに拍車がかかったのは、たぶん弁護士という職業を続ける中でだったと思う。日本は2050年には人口の約3分の1が65歳以上の老年になるという。予想を遥かに越えたスピードで高齢化が進み、介護制度やターミナルケアの問題と共に、老後の財産管理をどうするか、痴呆が生じた場合等に対応するための成年後見制度の導入などが現在検討されている。それを先取りするようなかたちで、子供のいない老夫婦の財産管理、その他諸々を、10年近く行なったことがある。
 老夫婦の所有する決して多くない財産に吸い寄せられるように様々な人達が近寄って来だ。見たこともないような甥が勝手にテナント契約を結んでしまっていたこともある。夫婦だけではとても応戦できず、訴訟だけでも5、6件に及んだ。
 明治生れのおばあさんは、まだ元気な頃、娘時代の思い出を語りながら常磐津を唄い、大事にしていた三味線やお琴をひき、舞いを舞ってくれた。「先生に出会えて本当によかった」と言いながら、端唄を習い始めたばかりの私に、何度も、後生だからこの三味線を使ってくれないかと差し出してくれた。財産管理人の私は立場上、曖昧に笑うしかなかったが。
 予想に反して、丈夫だったおじいさんの方が脳溢血であっという間に亡くなり、半身不随でかなり痴呆も進んでいたおばあさんが一人自宅に残された。近所の民生委員からの通報で駆けつけた私の目に最初に飛び込んだのは、玄関横の黒板に大きな文字で書かれた私の連絡先電話番号だった。おじいさんはどんな思いで日々、この電話番号を見ていたのだろう。
 他人の葬式の喪主になったのはその時が初めてである。が、葬式もそこそこに、八方手を尽して、おばあさんの受入れ先を捜し出し、高額な(当時)施設関連費や介護料等を賄うために、他の資産と同様に自宅も整理して人に貸すことになった。一日の猶予もなかった。ベットの側に置ける僅かな荷物と共に、おばあさんを施設に送っていった翌日、大きなトラックが自宅に運びこまれた。
 おばあさんが大切にしていた舞扇も三味線も、手入れの行き届いたおじいさんとお揃いの大島も、何もかもゆかしい香りを放って大切に保管されていたが、近所の人にとっても、初めて見る遠い遠い親戚の人にとっても無用の長物でしかない。他の家財道具と一緒に老夫婦の宝物は文字通りゴミの山と化して若者の手で運び出されていった。モノやカタチは遺しても仕方がない。いや遺したら悲しすぎる、あの時ほどそう思ったことはない。
 思えば、私達はかつてない程の大量のモノに囲まれ、大容量の情報の洪水の中に生きている。その中では否応なく人の暮し方も変らざるを得ない。
 情報メディアやインターネットなどの高度情報機器の発達は、私達誰れもが、必要な時にダイレクトに必要なモノ、情報にアクセスできるというバラ色の夢を描くが、本当だろうか。基本的に0か1かの発想に基く情報は、いつしか0にも1にも分類できない価値を切り捨て、実体を伴わない情報の空中戦は、やがて人に実体験に対する想像力の欠如を促す。データベースに蓄積されていく大容量の情報は、時間や空間を越えて、普遍性、客観性という名目を取得し、多くの文化や技術や価値観さえも平準化してしまう。
 私達は多くのモノや情報に接する機会が多い生活をすればするほど、より早いスピードで、不要なモノや情報を切り捨てていく生活を強いられる。しかし、一生懸命「捨てて」暮していくうち、気がついたら身の丈の人間が生きている大切な「証し」まで、容赦なく捨て去って暮しているのだったら―。
 昨年末、大阪で発見された芭蕉の「奥の細道」の自筆原本に70数ヵ所の推敲の跡の張り紙が残っていたというニュースを耳にして、そんな想いにとらわれた。

中村れい子
     筆者のプロフィール

弁護士
横浜弁護土会副会長などを歴任
横浜家庭裁判所調停委員、神奈川県収用委員会委員
神奈川県公文書公開運営審議会委員、神奈川県個人情報保護推進懇話会委員、平成5年度から神奈川県立公文書館運営協議会委員
横浜市在住

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収蔵資料紹介

1 近代の資料

土地宝典

 当館には、昭和3年から12年に発刊された神奈川県内の旧町・村等の「土地宝典」が100冊ほどあり、よく利用されています。
 「土地宝典」とは、基本的には地籍図と土地台帳とを一つにして編集し直し、一筆ごとに地番、地積(土地の面積)、地目(土地の主な用途)などを明記した地図、とみることができます。なかには、所有者名までわかるものもあります。
 「土地宝典」は関東を中心とした全国約13の出版社が発行しています。ふつうは「土地宝典」という一般的呼称を使っていますが、資料自体には「地番反別入図」、「地番地目地積入図」等と記されているものもあり出版社により多少異なっています。発行された地域は全国1都1府18県が確認されています。
 各出版社が「土地宝典」を出版するようになった背景には、地租改正が深く関係しています。明治6年公布の地租改正条例で、課税基準が収穫高から地価に改められたため、土地に値段をつける前提となる測量が行われました。まず「地引絵図」を作成し、次に一筆ごとの面積と所有者を記した「野帳」(土地台帳の前身)が作成されました。この「地引絵図」が、さらに明治18年からの地押調査などのなかで再測された字限図としての地籍図となりました。この地籍図は、二部作成され、正本は府県庁(後に税務署、昭和25年からは法務局)に保管され、副本は戸長役場(後に町村役場・市役所)に保管されています。

「土地宝典」は発行は民間の出版社等ですが、序文等から判断すると市・町等の行政当局の協力を得て右記地籍図を基に作成されたようです。従って、記載されている内容は公図及び土地台帳とほぼ同じといえます。
 法務局に行けば、誰でも公図を閲覧することはできるのですが、法務局の公図は常に現在の状況を示しています。ですから、当館の「土地宝典」のように昭和初期の状況を知ることができるというのは歴史資料として価値が高いといえるでしょう。

『土地宝典』(西根岸町部分)の画像
        『土地宝典』(西根岸町部分)

2 近世の資料     

成仏寺門前名主文書とヘボン

 ドクトル・ヘボンは宣教師として、医師としてあるいはヘボン式ローマ字考案者として名高い人物です。彼は安政6年(1859)に横浜を訪れましたが、当時は神奈川宿の成仏寺を宿舎にして、近くの宗興寺に施療所を開いて患者の治療に当たっていました。
 一方、この地域の成仏寺門前名主は源七といい、彼が書き残した文書など40点を当館で収集することができました。名主としての源七の重要な仕事の一つは幕府からの通達を書留めて、人々に周知させることでした。この通達をまとめて書留めてある文書を「御用留」といいますが、この度の収集文書の中にも21点の「御用留」があります。文久元年7月の項にヘボンについての記録があります(写真)。当時の外国人受入れの緊張した雰囲気が伝わってくる文書です。内容の概要は「アメリカの医師ヘボンが施療をしており、諸国の人が勝手に診療を受けにくるがどの様な人物が紛れ込んでいるか判らない。事故があっては困るので治療を受けたいものは宿内(神奈川宿)に宿を取り、宿役人に届けを出して奉行所の許可を受けて鑑札をもらい、その後役人がヘボンの所に案内する」という内容です。直接診療を受けられず、面倒なことになりました。こうした御触れを出さざるを得なかったのは、当時、攘夷運動が盛んで外国人が危険にさらされていたことを背景にしています。翌年の文久2年8月には近くの生麦で外国人を殺害する事件(生麦事件)が起きています。幕府も受入れた外国人に神経を尖らしていたのです。
 この成仏寺門前名主文書(藤井家)には、亨保4年から明治6年までの文書が含まれています。

「御用留」のヘボンに関する記述部分の画像
      「御用留」のヘボンに関する記述部分

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コーヒーブレイク

《空想の冒険譚》を編んでおきたい。そう、私はもくろんでいる。

 子どもの頃、忍者にあこがれた。滝壷を潜り抜けると別天地があり、戸沢白雲斎みたいなおじいさんが、どういうわけか孫娘と住んでいる。そこで修行をつんで、猿飛佐肋にまけない忍者になる。前途は希望に満ちていた。少年ケニアのようにアフリカヘ行ってもいい。十五少年の一人として漂流し、島暮らしもしてみたい。10代のはじめには、映画をみて、ハックルベリ・フィンをすっかり尊敬するようになった。しかし、たいしたことはなんにもおこらずに、少年時代は終わった。
 14歳のとき、ビキニ環礁事件がおきた。核実験現場からかなり離れたところでマグロ漁をしていた日本の船に、死の灰が降りそそぎ、久保山さんが亡くなった。なんという空しさ。核時代の戦争では、人間は灰で殺される。勲などありえない。無力感のどん底から、私は、戦争に対する「戦争」に、志願兵として参画しようと思った。友人と話あって、ささやかな原水爆禁止運動をはじめた。戦争という暴力に抗する「戦争」なのだから、非暴力を貫く。そうした立場で、以来、高校、大学、そして社会に出ても、なんらかの形で非核運動にかかわってきた。
 世界中に同じ志をもつ無名戦士がいた。それぞれが、あまり大胆なものではないかもしれないが、しかし、やはり冒険と呼ぶべき行為に自らを投じてきた。そして、冷戦を終結に追い込んだ。物語を構想し、まとめてみる価値があるのではないか。
 ここ公文書館には、広田重道さんから寄贈された、原水爆禁止運動の資料群が保管されている。人間の気力というものに励まされながら、読ませてもらっているところである。

公文書館館長 後藤 仁

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読書の欄

海老名市史叢書4『大島正健―生涯の軌跡』

 海老名市出身の教育者、大島正健の伝記が、このほど同市の市史編さん室から刊行されました。

正健は、札幌農学校の初代教頭クラーク博士の言葉“Boys,be ambitious!”を、「青年よ、大志を抱け」と和訳したことで知られますが、内村鑑三や新渡戸稲造と生涯にわたって親交を結び、また、明治34年から13年間校長を務めた旧制甲府中学時代には、教え子に大きな影響を与え、石橋湛山をはじめ、各界に多数の人材を送り出しているなどの業績は、これまであまり知られていません。
 このように、教育者のみならず、宗教家、言語学者として多くの業績を持ちながら、いわば「忘れ去られた人物」となっていたのは、関東大震災による資料の焼失や自らの無名主義によるものです。
 本書は、同編さん室が10年をかけて、正健が生活した札幌や京都、奈良、甲府などで現地調査を行い、資料や写真を収集し、さまざまなエピソードを拾い上げて正健の生きざまを描いた労作であり、正健について本格的に研究した伝記・資料集です。

2000部印刷、1部1000円で配布
 問い合わせは同編さん室
 電話 0462(31)2111

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歴史を訪ねて-二俣川周辺ー

大池公園(こども自然公園)

 こども自然公園は、この公園にある大池がシンボルとなって別名「大池公園」として地域の人に親しまれています。
 この大池は、徳川時代の中頃に灌漑用の池として作られたむので、13,000平方メートルと現在の大他の約2倍もあったと伝えられています。
 池のそばには弁財天の石の祠(寛政2年(1790)2月と刻まれています。)があり、これは天明の大飢饉のときに亡くなった人を供養するために祀ったものといわれています。

大池公園  
 この池には数多くの伝説があり、江戸時代には、この辺りは、うっそうとした林にかこまれていて、池には大蛇が住み、品濃(今の戸塚区品濃町)の三っ池に住む大蛇と行き来をしていたといわれています。また、明治時代には、学校帰りの子供たちがこの池でこっそり泳いでいると、いつまでも水の中から出てこない子供がいたため、この池には河童が往んでいて子供を引きずり込んで、尻子玉を抜くという噂が広がるようになりました。
 このような神秘的な池をもつ大池公園も、現在は、魚釣り、ピクニック、植物観賞、花見、蛍狩り、バードウォッチングなどなど自然と触れ合える都会のオアシスとなっています。
 是非一度公文書館の帰りに寄ってみてください。

(相鉄線二俣川駅南口より徒歩20分、又は相鉄バス「万騎が原大池」下車徒歩1分)

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公文書館のしごと

『古文書所在調査』

 当公文書館の仕事の一つに古文書等資料所在調査があります。公文書館というと国、県、市町村が行政を遂行していくために扱っている書類だけを対象に仕事をしている施設のように考えられがちですが、そうではありません。国立公文書館に徳川幕府の文書等を管理する内閣文庫があるように、当館には神奈川県史編集のため収集された古代から現代に至る膨大な資料が保存され利用に供されています。また、江戸時代に村の名主を務めた家の文書が収蔵され、これも調査研究の利用に供されています。名主の家の文書には、今日の土地台帳に当る検地帳、徴税令書である年貢割付状、その受領書としての年貢皆済目録、町・村勢要覧に当る村明細帳、村の財政を示す村入用帳、戸籍謄本台帳である宗門人別改帳、人の移動証明通知に当る人別送り手形等々は、いずれも今日の市町村役場における行政遂行のための文書と書式は違っていても果たす役割に変わりありません。
 これらの資料は、一般に古文書と呼ばれています。先人たちの生活や足跡を知ろうとするとき抽象論ではない正確な歴史事実に基づいた考えが要求されますが、その事実の把握に役割を果たすのが古文書なのです。歎願書などは、誇張して自分たちに有利に書くことがあるのでよく吟味して扱う必要はありますが、何故そのような歎願が出るのかその歴史的背景を探らなければなりません。そのためには、沢山の古文書を調査し研究しなければなりません。
 当館の業務については、公文書、古文書を県民共有の財産として永く後世に伝えるために、収集・保存・利用、これに関連する調査研究を行うことを公文書館設置条例等でうたっています。

 当館の所在調査は、悉皆調査です。このため調べて整理し目録を作成する資料は、江戸時代に限らず、中世にさかのぼり、また明治・大正・昭和期に及ぶこともあります。整理では、原状を崩さないように注意しつつ資料を1点ごと袋に入れ、袋の上に資料名・内容・年代・差出人等必要事項を記入します。袋は、中性紙(弱アルカリ性紙)のものを使用します。そして、整理目録を所蔵者別項目別に作成します。この目録は、報告書に代えて「神奈川県古文書資料所在目録」として刊行します。調査と同時にマイクロフィルム撮影を実施します。作業終了後、所蔵者に資料の内容と今後のアフターケアについての説明を行います。

マイクロフィルムに撮影された資料は当館で閲覧することができます。

古文書所在調査実施写真
         古文書所在調査実施風景

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ある日のレファレンスから

   質問

 昔の公報や官報はありますか。

回答

 条例や施策の周知のために発行されている「神奈川県公報」は明治20年3月に発刊されてから今年で110年目を迎えました。発刊から昭和19年12月まで及び昭和59年1月以降のものは、現物を所蔵しています。また、明治6年1月の神奈川県布達(古い行政用語で、官庁などが一般に広く知らせること)を含め平成3年12月までの県公報はマイクロフィルム化されています。公報については、県内のどの機関よりも欠号が少なくなっています。今後もこの欠号分及び布達の収集、目録の整備に努めたいと考えています。
 また、国の公文書その他の公示事項を周知させるための機関紙である「官報」は明治16年7月に発刊されました。明治19年1月から現在までの分は現物を所蔵しています。(一部欠号あリ)。なお、発刊から大正8年12月まではマイクロフィルム化され、閲覧ができます。今後もマイクロフィルム化を進めていく予定です。官報発行以前の明治6年からの太政官布告、各省達等も一部所蔵しています。

 

神奈川県

このページの所管所属は 公文書館 です。