公文書館だより 第6号

掲載日:2011年3月15日

戦前期醤油のレッテル

 商品に貼られたレッテルは、中身を保証するという大切な役割を担っていますが、その時代の雰囲気も併せ持っています。例えば、食生活に欠かせない醤油。そのレッテルは、デザイン性などより庶民臭い印象を湛えています。特に戦前においては、その原料である「麦と大豆」が必ず登場し、左右対称の意匠が好まれたようです。
 写真は相模原市磯部にあった「藤屋醤油店」のものです。上半分に銘柄「不二山」の商標と富士山を描き、左側にはお馴染みの「麦の穂」と「大豆の莢」が占めています。しかし、左右対称ではなく、右側に割烹着姿の女性を配しているのが、ちょっぴり斬新とか。醤油屋の次男坊が婿入りして創業したお店も、戦争が激しくなってゆく昭和15、6年頃には廃業したと聞きました。
(葉山家寄託資料)

藤屋醤油店レッテル

       (原寸 79×105ミリメートル)

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公文書館と情報の電子化の課題

1 はじめに

 平成11年度は、公文書事務を担当する私たちにとって、注目すべきできごとがいくつかありました。一つは、昨年の3月に神奈川県公文書公開運営審議会から、県の情報公開制度について、公文書の定義の中に「電磁的記録についても対象情報に含めるべき」との答申が出され、本年3月、定例県議会において新たな情報公開条例として可決成立したことです。もう一つは、県の公文書事務について定めた「行政文書管理規程」が四月に制定され、「行政文書」の範囲に「電磁的記録」が含まれること、及び文書の施行についても情報システムにより管理されるとなったことです。これに伴い、県の各機関から保存期間満了後に公文書館に引渡しがされる「行政文書」は、従来の紙文書に加えて、電子的文書の増大が予測されます。郵政省の調査では、インターネットの普及はめざましく、1800万人の国民がインターネットを利活用していると発表されています。また、昨年5月には、国において情報公開法が制定され、21世紀に向け、行政情報の電子化と情報公開の流れは、国・地方を問わず、ますます加速していくものと思われます。
 当館としては、以上の動向に示される高度情報化社会の進行の中における電磁的記録の収集・保存・情報公開のあり方について速やかに方向付けをしていかなくてはならない大きなテーマであると考えています。

2 現行の公文書館情報管理システムの特長

(1) 情報管理システムの概要

 公文書館が所蔵する膨大な資料(平成10年度末で約55万件)の管理は、コンピュータを活用した情報システムの活用を抜きにしては考えられません。公文書館の情報管理システムは、平成4年から5年度に開発がされ(当館の開館は平成5年11月)、収蔵資料を容易かつ迅速に県民に提供することを目的に、資料情報をデータベース化しています。なお、情報管理システムヘの登録件数は約22万作です。データベースは、1歴史的公文書、2古文書、3行政刊行物・図書、4その他資料、5資料群情報、の五つで構成されており、検索には、利用者が日頃なじみの薄い公文書等を検索できるように、思いついた任意の言葉を入力すれば検索できる自然語検索システムとなっています。

(2) 情報管理システムの機能

公文書館情報管理システムは、具体的には、次の機能を実現し、公文書館が所蔵する資料の一元的管理を行っています。

ア 資料の検索支援

 既設の図書館や公文書館では資料検索の手段として目録または目録カードなどが作成され、活用されています。しかし、それでは資料検索に時間がかかり、保守が行われていない場合、資料にたどり着けない場合がしばしばあり、結局、ベテラン職員の経験による勘やコツに依存しがちとなります。そうした事態を排除し、利用者に迅速で公平なサービスを供給する必要が生じます。そのため、公文書館では、閲覧室に館内サーバーと接続したクライアントパソコンを設置し、利用者が直接、容易に資料を検索し、参照するシステムを導入しています。

イ 資料の選別支援

 県の各機関から引き渡された公文書を公文書館職員が選別するに当たって、過去の選別結果を参照する上で、一冊の祇の目録では参照という行為そのものが別の担当者と競合するなどの結果、選別業務の遅延や、毎年の一貫性のある選別作業を困難にしてしまいます。クライアントパソコンによる目録検索システムによるデータベース形式の目録検索は、例えば所属別や件名別に過去の選別データを参照する等により、それを防止し、速やかな選別作業と選別基準の一貫性を実現することができます。

ウ 資料の書庫出納支援

 資料は館内の1号から7号までの書庫に分散して配架されていますが、利用者から閲覧請求のあった資料を、請求を受けた職員が探し出すためには、その正確な位置が目録に記されていなければなりません。しかし往々にして紙による目録は作成者の主観が入る等により、不正確で、一貫性がないものとなり、出納作業が非能率的なものとなり、その結果、利用者を長時間待たせる等迅速公平なサービスが保障できない事態が生じるおそれがあります。そのため、情報システムを活用した電子的目録(データベース)に資料の配架位置を記録し、正確、迅速な書庫出納業務を支援しています。

エ 対外的情報の提供

 公文書館情報管理システムは、県民・利用者の利便性を考慮し、館内の閲覧室での利用だけでなく、県政情報センター(本庁)及び県立図書館と公衆回線で接続し、わざわざ来館しなくても情報検索ができるようにしています。

3 公文書館情報管理システムの課題

 公文書館では、情報化・電子化に対応する課題整理のため、昨年6月、館内に「情報の電子化プロジェクト」を発足させました。そのプロジェクトでは、公文書館情報管理システムの課題として、次のテーマを主要な柱として検討を進めてきました。

(1) インターネットによる対話型の歴史情報の提供

 高度情報化社会である21世紀に相応しいコミュニケーション媒体として、インターネットを積極的に活用し、即時性、同時性を持った情報提供を実現することが、公文書館情報管理システムの最も優先的課題です。このことにより、県民及び県職員が、24時間、いつでも、どこからでも歴史(行政)情報を検索することやEメール等を活用した資料照会(レファレンス)やそれへの回答が可能となります。なお、インターネット接続により、現行の公衆回線で当館と県政情報センター及び県立図書館とを接続した情報検索サービスは、その役割を終了することとなります。

(2) 電子公文書の公開システムの検討

 昨年4月に制定された行政文書管理規程で、保存文書となった行政文書(電磁的記録を含む)の公文書館への引渡しの規定が設けられました。公文書館は、それらから歴史的価値を有するものを選別し、それを広く県民の利用に供することが使命です。なお、公開に当たっては公文書館条例のほか、情報公開条例、個人情報保護条例に基づく対応も必要です。
 平成13(西暦2001)年度には、県機関から電磁的記録を含む行政文書の引渡しが開始される予定です。現用公文書としての保存期間が満了した以降の、文書のライフサイクルに対応した電磁的記録(電子公文書)の収集・選別・保存・公開システムの構築が急務となっています。

(3) 中間保管庫管理システムの検討

 公文書館は、本庁の保存期間が30年または10年の保存文書(簿冊文書約2万件)で、完結年度から5年を経過したものを法務文書課から引継ぎを受け、公文書館の書庫で保存期間が満了するまで保存します。これを、公文書館の中間保管庫機能といいます。これらは、従来、紙の目録で管理を行ってきましたが、利用する本庁主務課職員の利便性の向上と情報システムによる一元的管理の実現をめざして、法務文書課の統合文書処理システムとの整合性を考慮した中間保管庫管理システムの構築を検討する必要があります。このシステムの完成によって、本庁各主務課は、公文書館に文書の所在の照会を、電話や訪問して行う必要がなくなり、本庁ネットワークシステムから容易に必要とする文書目録を取り出すことができることとなり、たとえば県民からの情報公開請求に対しても迅速な対応が行えること等が想定できます。

(4) 閲覧室機能の見直し

 また、電子情報の公開は、画像、音、文字等のその電磁的あるいは光学的媒体に記録された情報を利用者の閲覧請求に応じて再現、再生し、複写する機能も整備する必要があります。そのため、電子情報に対応する公文書館閲覧室のあり方についても重要な検討課題です。

4 おわりに

 以上、当館の情報管理システムと「情報の電子化プロジェクト」の検討結果の概要を中心に紹介させていただきました。

さらに館内での議論を深めると同時に、利用者サイドからの要望を参考としながら、関係機関の理解と協力を得て、「郷土神奈川を知る場」「神奈川の情報を広く公開する場」としての公文書館の情報提供機能をいっそう充実させていきたいと考えています。

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随想

直訴と目安箱 池上裕子

 警察の一連の不祥事をめぐって、テレビや新聞などで多くの報道がなされた。警察庁や公安委員会には抗議の電話やEメールが数多く寄せられたとも伝えられている。街頭で市民の方がテレビ局などのインタビューに応じて率直に自分の意見を述べている様子もみられたし、新聞の投書欄にも意見が載った。後者は一般の人に向けた意見の表明だが、前者は事件の当事者である政府機関へ直接意見を届けようとしたもので、そのような行動に出た人が非常に多かった点が注目される。
 電話やファクシミリ、コンピュータの普及で、多くの人が自宅に居ながらにして、怒りや意見を役所など行政組織に直接伝えることが出来るようになった。これらの報道をみていて、江戸幕府の八代将軍 徳川吉宗が目安箱を設けた話を思い出した。教科書にも書かれて誰もが知っている、300年ほど前のできごとである。当時、訴状のことを目安といった。吉宗は、享保の改革の一環として、広く庶民が政治に関する提言や、役人の不正・私曲の告発などを直訴できるようにしたものである。貧しい病人の救済のために小石川養生所を設けたのは、目安箱への投書を採用したからであった。当時の社会の状況は、今の日本と似ているところがあるように思われる。江戸幕府の支配がはじまって100年がたち、制度疲労があらわれ、矛盾がいろいろなところで目立つようになり、政治に対する批判や不満が農民や都市住民の間に渦巻いていた。目安箱の設置は、将軍みずからが、強い危機感をもって庶民の意見や訴えを積極的に受けとめようという姿勢を持ったことを示す。
 今回の電話やEメールの内容は怒り・抗議が中心のようだから、目安と同じとはいえないが、一種の直訴といってもよいであろう。一方、政府の方は「改革」が必要だといっているが、「目安箱」を設けて広く提言を募るという姿勢はみせていない。今ある「パブリックコメント」の制度は限られたもので、このような政治の根幹に関わる重要問題についても、広く民意を募り、「改革」に向けた提言をきちんと受け止め生かしていけるような、新しい「目安箱」が必要であろう。
 さて、吉宗の目安箱は有名だが、それよりさらに200年近くさかのぼって、戦国大名も目安箱を設置していたことはあまり知られていない。駿河(静岡県)の戦国大名 今川義元は訴訟・裁判制度の整備に力を注ぎ、「目安の箱、毎日、門の番所」に出して置く、と定めている。相模(神奈川県)の小田原城にあって関東地方を支配した戦国大名 北条氏も、三代 氏康の代に目安箱を設けた。1561(永禄4)年5月の書状で氏康は、10年前から目安箱を置いて諸人の訴えを聞き届け、道理を探求し、非分なく政治を行うよう努めていると、みずからの政治姿勢を述べている。
 目安とは、もともとは内容を箇条書きにした文書のことで、中世では、たとえば武士が戦争での自分の手柄を大将に申告する軍忠状を目安といったり、裁判での原告の訴状と被告側の返答書(陳状)も目安といっていた。北条氏の史料では、訴状を目安といい、被告側の返答書を相目安といって区別するようになっている。目安は武士でも、農民・商人・職人・漁師・芸能者・僧侶など誰でも提出できた。小田原城のほか、玉縄城や小机城、津久井城など各支城でも提出できた。今川氏や吉宗と同じように、匿名は禁じられ、住所や名前を明記する必要があったと思われる。訴えの内容はさまざまで、米銭の貸借、土地の所有権や境界、山野の利用などをめぐる争いもあった。禁止されている博打などの賭事をした者がいたら、目安を書いて訴え出るように促した文書もある。また、領主・代官(武士)の不正・不法行為も訴え出るよう奨励されていたので、農民や町人が勝訴したことを示す史料もある。今とは制度も社会の仕組みも異なるが、目安箱設置の精神について思う今日この頃である。

池上裕子 
筆者のプロフィール
成蹊大学教授   日本中世史専攻
横浜市在住

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収蔵資料紹介

1 近代の資料 学童疎開報告集

 かつて、文部省は、サイパン島の陥落が迫った当時、本土空襲をおそれ、「人的資源の保護」を目的に全国13都市の学童を地方に疎開させました。横浜においては、昭和19年夏、市内から67,000人ほどの学童が親元を離れ、箱根や小田原などに移され、寺社や旅館に分宿しました。これまで、神奈川県内における疎開に関する公文書は、空襲などで失われたとされてきましたが、平成10年、横浜市戸塚区在住の元教員、葛野伸夫氏方で大量に見つかり、平成11年1月、標題の資料ほか図面など33三点、約400枚の寄贈を受けました。資料によると、食料が不足し、文部省の指示で野草を採取し、根を乾かして粉にし、うどんや団子に混ぜるなどして食べていました。また、「栄養失調や赤痢で手当を受けた子もいた」との記録もあり、きびしい疎開生活を浮き彫りにしています。

学童疎開報告集
 葛野氏の父の重雄さんは、戦時中横浜市の職員で、大がかりな疎開の事務を担当し、報告書などを自宅に持ち帰り保管していたようで、今回の資料は、昭和62年に85歳で亡くなられた重雄さんの遺品を葛野氏が整理中に発見したものです。横浜市では、戦時中の多くの疎開関係文書が失われ、これまでは当時の人の記憶にたよるしかなかったため、本資料は大変に貴重であり、また、全国的に見ても、これほど詳細でまとまった資料の発見は珍しいとされています。ここで、あらためて貴重な資料をご恵贈いただいた葛野伸夫氏に深くお礼申し上げます。

2 近世・近代の資料 葉山家文書(当館寄託資料)

 葉山政夫氏が所蔵されている古文書を紹介します。
 当家は、旧堀内村を居住地とされ、宝暦7年(1757)に当時村名主であった葉山市郎右衛門政吉から持高5石で分家しました。その人の名を太七といいます。堀内村名主は、市郎右衛門家が徳川幕府の初期から幕末に至るまでその役職を務めてきましたが、ゆえあって慶応2年8月からは、百姓代であった太七が村名主に就任しました。明治2年から名主職を高梨五郎右衛門に引き継ぎますが、名主廃止後の明治5年には堀内村戸長として里正に復帰します。こうした葉山家に伝来した古文書は、紙製手文庫・桐製手文庫・大小の箪笥等に入れて保管されています。紙製手文庫内に一括して納められた御台場普請関係文書は、堀内村名主葉山市郎右衛門が公郷村名主永嶋庄兵衛と共同で請け負った江戸湾品川沖の御台場築造のための石材納入に関する史料です。幕府下附金の延期により、両請負人の経営が次第に困難となっていく様子を読み取ることができます。

旧堀内村絵図
 桐製手文庫文書は、旧堀内村の村政運営に関わる江戸後期から明治10年代に至る名主・戸長の文書です。この手文庫内の明細書上帳は、現在の村勢要覧にあたる内容で、村の総石高、家、総人口、社寺、橋、馬等々の数が記載されています。また、安永2年から慶応3年にいたる彩色の旧堀内村絵図10点は、1点を除き作成年代明記のもので、村全体図の中に浜辺に並列する家並、鎮守森戸明神やその沖合の孤島名島、谷戸に開かれた田地、用水としての溜め池、信仰の寺院・神社、郷蔵や高札場、山、川、道、地名(字名)等が描かれており、江戸時代におけるその時々の村の景観を知ることができます。掲載絵図はそのひとつです。

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「古文書解読講座」‐入門・中級・上級・一日講座‐

講座風景
 当講座は、古文書の解読や解説を通して、古文書に関心を深め、郷土の歴史や文化について理解し、古文書を含めた歴史資料の保存や取扱い等について、県民の皆様に学んでいただくためのもので、毎回好評をいただいております。
 当公文書館の開館(平成5年11月)以来、この講座の参加者は延べ3108名(平成12年3月まで22回開催、1回平均141名)を記録しました。これは最近の「歴史ブーム」や生涯学習の重視といった社会的な背景もありますが、受講者の皆様の熱意がこのような数字になってあらわれたものと思います。

入門コース(毎年2、3月頃、毎週日曜日全6日間)は、当館郷土、行政資料課職員や外部の研究者を講師に迎え、古文書の種類、古文書を読むための学習方法、近世(江戸時代)の農村支配と古文書の流れ・中世や近世資料の読み方等について、分かりやすく解説した後、用意した「テキスト」を読みながら講義を行います。

中級コース(毎年5、6月頃、毎週日曜日全5日間)は、当館所蔵の資料等を使い、江戸時代の村の組織や、紛争等資料を読みながら具体的に話を展開し、中世や近代の講座も途中におりこみながら、講義を行います。

上級コース(毎年10月頃、毎週日曜日全3日間)は、文字の解読よりも書かれている内容に重点を置き、歴史的事実の確認や時代背景等に時間をかけた講義を行います。

一日コース(毎年秋頃、日曜1日)は、公文書館から遠く参加しにくい人を対象に地域の施設を使用して、その地域の歴史がわかるような講座を実施しております。このコースは当館の運営協議会の提言や受講者の要望で実現しました。今回まで4回開催しました。(小田原市、厚木市、逗子市、秦野市)

 受講者のアンケートには、「古文書を通して、当時の暮らしや考え方がよくわかった」「古文書を読むと当時の村人の息吹が感じられた」「江戸時代のものと違い明治時代の文書は読みにくいのに驚いた」などの感想が寄せられ、又、公文書館を幅広く利用したいという方も増加してきているようです。当館では講座の受講にとどまらず、資料の方も大いに利用していただけたらと思います。
 今後とも、皆様のご要望に応え、より一層充実した形で「古文書解読講座」を続けてまいりたいと考えていますので、さらなるご支援、ご助力をよろしくお願い致します。

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ある日のレファレンスから

質問

二俣川附近の古い地図はありますか。

回答

あります。

地域の古い地図は江戸時代につくられた村絵図と、近代(明治以降)になってからの地図があります。

江戸時代の地図は幕府に命ぜられて作られたのですが、田畑と山林、道路、家数などが、カラーで書き込まれています。具体的には旧善部村(現 善部町付近)の文書の中に絵図があります。
明治のはじめになると地租改正の必要から地引絵図という大きな絵図がつくられましたが二俣川地域では保存されていません。その後「土地宝典」という地割がわかる、現在の明細地図のような一筆ごとの地図がつくられました。その他少し大きな地域を含む陸地測量部作成の5万分の1地図や、フランス式の2万5千分の1「明治前期手書彩色関東実測図」が作成され、地域の概観を知ることができます。


コーヒーブレイク

 明治・大正・昭和・平成と日本の激動の4代を生き披いた母を昨年の4月に亡くした。母の生涯を振り返って見ると、関東大震災・太平洋戦争・離婚・生活苦・男3人の子育て次男の交通事故死等、まさに波乱万丈の人生であった。母の遺品を整理しながら、母と共に苦労した時の思い出が蘇り目頭が熱くなるのを覚えた。遺品の中には母が晩年、趣味として作った短歌・俳句・川柳・書道・ちぎり絵など多くの作品があり、そのひとつひとつから母の苦労や思い出、感情などが読み取れる。特に、歌の中には母と私の2人にしか本当の意味を理解することができない歌があり、一層苦労した母が思い出され、十分に親孝行ができなかったことが悔やまれる。そんな思いから作品の一部を大変お世話になった方々にご披露した。このことが少しでも母への供養になっていればありがたい。
 神奈川県立公文書館は、公文書等の歴史的資料を保存し閲覧に供することを目的として、平成5年11月に開館された。施設の内容・規模とも全国から高く評価されている公文書館である。当館の資料が今後どう利用され活用されるか、そして後生の人達にどれほど役立つか現時点では計り知ることはできない。しかし、この巨大なタイムカプセル作りを怠ってはならない。何故なら、歴史的資料が後世の人達にふれた時、喜び・悲しみ・驚き・楽しみ・苦しみなど色々な感情が湧きあがると共に過去を反省し前進する道標になるであろうから。母の遺作も我家の歴史的資料である。今後どのように保存し、子供達にどう伝えて行くか思案中である。まもなく1周忌を迎える、母にどのような報告ができるだろうか。

「八十余年よくぞ生きしと細き手をかぎしてみたり陽だまりの中」

 こんな歌を残した母、うたた寝をしているとそっと布団を掛けてくれた優しい母を思い出しながら、今まろやかなコーヒーを味わっている。

公文書館館長 岩崎純夫

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読書の欄

佐藤誠著 『鶴見騒擾事件百科』 1999年12月 ニイサンマルクラブ 刊

 本書は、大正14年12月21日夕方、横浜・鶴見町潮田で起った建設下請業者間の乱闘事件について、多様な文献・資料をもとに事件の真相を検証した解明書である。
 この事件は関東大震災のあと、京浜工業地帯が成然していく過程において、火力発電所建設にあたり基礎工事下請業者と建設工事下請業者間の利権をめぐって1,000人以上の博徒と稼業人が引起こした乱闘事件である。準戒厳令もひかれた日本最大の大喧嘩ともいわれる。『神奈川県史、別編3、年表』によれば「労働者数百人が乱闘。死傷63人、検挙416人」と記述されているが、大半が包囲網から逃げのびている。また立入措止された助人予備軍を加えると関係者は2,000人を超えるとも言われ、その規模は図り知れず、他にも闇に包まれた部分の多い事件である。この事件に闘しては『闘いの構図上下二巻』(青出光二著 昭和54年、新潮社刊)が発刊されているが、綿密な調査に基づき迫力をもった筋書きで読者に真相を訴えている。一般的にノンフィクションノベルはモデル(当事者)が存在し、事実にもとづいて書きくだされたものであり、資料をして事実を語らしむ、とも言われている。だが、当然のことながら作品には客観的資料のほかに著者の感性あるいは人生観が大きく発露されることが多く、主人公が誇張される場面もあれば主客転倒の場合もありうる。その結果面目をほどこされる人と迷惑をこうむる人が生じてくることもある。
 さて、プライバシーや個人の尊厳をいかに保護するかという現代的な課題において、知る権利や真実を世に伝える使命に対して、秘密を守る権利や知られたくない権利のせめぎあいが問題となってくる。まさに、単なるスキャンダル小説か事実に基づく小説かという問題であると同時に、著者と読者のモラルの問題でもある。冒頭の著者は文献主義を貫き、真実を紐解こうと数多い資料を突合しているが相違点が多く文献そのものの真ぴょう性をどう評価するのか悩まれたことであろう。

副館長 伊東 洋

神奈川県

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