公文書館だより 第8号

掲載日:2011年3月15日

初詣と遊覧案内(京浜電鉄)

初詣と遊覧案内
 現在の京浜急行電鉄の前身である京浜電鉄と湘南電鉄が、品川―浦賀間(品川―日ノ出町間は京浜電鉄、日ノ出町―浦賀間は湘南電鉄)で直通運転を開始したのは昭和8年(1933年)4月でした。この遊覧案内は翌9年1月に発行されたものです。
 裏面には川崎大師をはじめ、京浜・湘南両電鉄沿線の寺社や、花月園、金沢文庫などの名所案内が記載されています。

京浜・湘南電鉄沿線図
 その中には「横須賀軍港見学」(軍艦、海軍航空隊、海軍工廠等)の案内もあり、「見学は観覧願書へ相当事項記入、横須賀鎮守府宛御郵送になれば直に許可を得らる。」とあります。当時「横須賀軍港」という駅がありましたが、それが現在の汐入駅です。京浜電鉄は昭和16年11月、湘南電鉄と合併しました。さらに昭和17年5月には東京横浜電鉄、小田急電鉄と合併し、東京急行電鉄が設立されました。戦後、昭和23年6月に京浜急行電鉄として発足し、現在に至っています。

(当館所蔵資料)

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公文書館におけるマイクロフィルム撮影事業

1 はじめに

マイクロフィルムの特徴としては、次の諸点を挙げることができます。

  • 長期保存性 適正な保存状況下では100年以上の寿命が期待できます。
  • 高画質 3000dpiに相当する画質が実現できます。なお、デジタルデータは通常1000dpi以下です。
  • 規格の統一性 記録メディアが国際規格で標準化されています。
  • デジタル活用 マイクロフィルムからのデジタル化が容易に可能です。
  • 各種メディアからのフィルム化 文書のほか図面、写真、図画等のマイクロフィルム撮影が容易にできます。
  • 法的証拠能力 オリジナルに忠実で、データの書換が不可能などにより強い法的証拠能力を有します。

以上のような特徴を持っているため、マイクロフィルムは文書や画像などの大量の情報を効率良く保存・管理・活用するうえで最適であり、公文書館をはじめ、図書館、博物館、官公庁、企業、大学など、幅広い分野で活用されています。

本橋では、公文書館におけるマイクロフィルム撮影と閲覧の実際を紹介し、皆様の利用の一助となればと思います。

2 マイクロ撮影事業のスタート

 神奈川県のマイクロフィルム撮影事業は、昭和41年にスタートしました。当時、三箇所あった文書課(現・法務文書課)倉庫には、74,000冊の保存文書を収容しており、毎年文書課へ引き継がれる文書量から、その収容能力が限界に達するのは時間の問題となっていました。また、新庁舎の完成を期して行われたファイリングシステムの実施によって大量の文書の引継ぎが予想されました。そこで、書庫スペースの削減と保存文書の利用促進を図るとの趣旨でマイクロフィルム撮影事業が導入されることとなりました。
 当時のマイクロフィルム撮影事業は、マイクロフィルム撮影された原文書(紙文書)は基本的に廃棄され、マイクロフィルムだけが保存されました。また、保存されたマイクロフィルムも10年保存文書については、保存期間満了後に廃棄されました。そのため、歴史資料として重要なマイクロフィルム文書が残らないという問題がありました。

3 公文書館におけるマイクロ撮影事業

 平成5年11月に公文書館が開館し、公文書のマイクロ撮影の業務が公文書館に移管され、マイクロ撮影の意義が変わることとなりました。書庫スペースの削減を目的とした撮影ではなく、「歴史資料として重要なものを選別し、保存」するという館の設置目的に則り、「歴史的公文書」として選別された原文書及びマイクロ文書はそれぞれ永年保存されることとなりました。また、原文書(資料)保護のためのマイクロ撮影が開始されることにもなりました。なお、県内部の「保存文書の利用促進を図る」目的での現用公文書のマイクロ撮影は継続されました。

(公文書館におけるマイクロフィルム作成要綱第三条)

4 マイクロ撮影の現状

(1) マイクロ撮影対象範囲

現在のマイクロ撮影対象文書は、次のとおりです。

  1. 公文書館資料等(歴史的公文書等)で原資料保護のうえからマイクロフィルム化が必要なもの
  2. 中間保管庫に引き継がれた30年保存文書のうち、職員の利用に当たってマイクロフィルムによるほうが倹索閲覧の便がよいもの

なお、現在、公文書館が収蔵するマイクロフィルムは、21,668本となっています(平成13年3月末現在)。

(2) 歴史的公文書(昭和20年代公文書)のマイクロ撮影

 昭和20から30年代の公文書は、戦後の混乱等により劣悪な用紙を使用しており、酸性劣化が著しく、マイクロ撮影による資料保存の対応が必要となっています。そのため、戦後期のうち特に劣化か進行し、近い将来に滅失の可能性さえ予測される昭和20年代公文書についてマイクロ撮影を行っています。(平成13年度から実施)
 なお、開館以後、土地宝典、郡役所文書などを撮影しています。

(3) 古文書のマイクロ撮影

 古文書は、地域の成り立ちや先人たちの営みを知るうえで貴重な歴史資料です。これら貴重な古文書原資料の保護と県民への閲覧や複写サービスができるよう、当館に寄贈・寄託された古文書のマイクロ撮影を行っています。撮影対象は、飯田、神原、鈴木、井上、佐々本家文書等です。なお、撮影を完了した文書としては、手中家、千葉家、神奈川宿石井家文書、山ロコレクション等があります。
 また、県内の旧家などに保管されている古文書は、家屋の建て替えや世代交代により散逸の傾向にあるため、これらの所在を調査し、保存等の対策を講じる必要があります。そこで、所在調査として、保存措置を行うとともに、マイクロフィルム撮影を行っています。

(4) 現用公文書(30年保存文書)のマイクロ撮影

 現用公文書のマイクロ撮影は、昭和41年に文書課(現・法務文書課)において開始した永年保存文書及び設計図面等のマイクロフィルム撮影事業を公文書館開館後引き継いだものです。そのため、撮影対象となる現用公文書は、文書課(現・法務文書課)において撮影されていたものを範囲として、その中から利用頻度が高く、今後も本庁内マイクロフィルム閲覧室へのマイクロフィルム文書の供給を継続した方がよいと恩われるものについて選定し、撮影しています。現在選定しているのは次の11課24文書です。
 叙勲ほか(秘書課)、採用ほか(人事課)、例規(税務課)、恩給(職員課)、県公報(法務文書課)、宗教法人(私学宗教課)、神奈川文化・スポーツ賞(文化課)、身障手帳(障害福祉課)、保安林指定(林務課)、道路区域ほか(道路管理課)、行政施設図面(建築工事課)

5 主なマイクロフィルム資料

 公文書館が所蔵するマイクロフィルムには、次の資料があり、利用者の閲覧に供しています。

(1) 新聞マイクロフィルム

 本県の地元紙である神奈川新聞を、その前身である横浜貿易日報、横浜貿易新聞から現在まで所蔵しています。(明治24年から平成12年まで)また、朝日、毎日、読売、日経、産経、東京の各紙神奈川地方版について、開館時(平成5年1月)から平成12年12月分まで所蔵しています。

(2) 神奈川県公報

 神奈川県公報をその前身である布達から現在まで所蔵しています。(明治6年から平成12年まで)

6 マイクロフィルムの利用

 公文書館閲覧室にマイクロフィルムリーダープリンター (4台。うち1台は図面用。)を配置し、職員、県民等がマイクロフィルムを閲覧、複写できるようになっています。なお、県民等が4(4)に記した現用マイクロフィルム文書の閲覧をする場合は、事前に情報公開制度による主務課の承認が必要となります。
 非現用のマイクロフィルム資料等については、個人情報等が含まれているものを除き、自由に閲覧することができます。

7 おわりに

マイクロ撮影作業
 今後もマイクロフィルムは、長期保存性などの特徴から、最近のデジタル技術と融合しながら、改善が積み重ねられて行くと思います。マイクロ撮影業務は、将来に貴重な歴史的資料を継承するための、公文書館の資料保存では、中心的な役割を果たしているといえます。
 皆さんのいっそう積極的な利活用を期待します。

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「古文書を読む会のあゆみ」 粟津 勇太郎

 「古文書」はという難しい定義はともかく、過去の時代の史料となる古い文書や記録であれば、いや一片の筆で書かれた古い書きものでも対象に、興味を持ち、判読してみようと志す人々はここ数年ばかり急増していると思われます。「古文書」を読むことを対象にした人々のグループやサークルが一般市民のなかに色々と「会」を作り活躍されていますが、その基盤は各都市の文書館・公文書館・図書館・博物館等の各種「古文書入門講座」での出会いでしょう。
 昨年、私が北海道に家族旅行をした時、札幌の観光名所、通称「赤れんが」北海道庁旧本庁舎を見物ついでに同庁舎内の文書館を訪れ、活動状況を伺ったところ、中世以前の文書はないが、幕末以後の史料は沢山残っていて、古文書解読や資料取扱の研修会を開催しているとのことで、地方でも古文書教室(ニセコ町・名寄市・枝幸町・斜里町等々、定員50名)が毎年行われ、「古文書解読講座」、「文書でみる北海道史講座」なども行われていると、文書館文書専門員の鶴原美恵子さんから説明を受けました。このように、日本全国いたる所で古文書解読ブームで、その人口が増えていることは当会の旅行会での見学他の調査でも頷けます。
 さて、神奈川県でもその傾向は顕著に現れて、古文書を読む人口は増加し続けています。そこで「古文書を読む会」の発展を振り返ってみると、神奈川県立文化資料館開催の「古文書講座」に参加された方々のなかに、既に地元での古文書サークルに参加されている方もあり、解読能力のある人もおられ、その方々の熱心な呼びかけと、文化資料館の館長をはじめ担当の先生方の協力により昭和59年11月に会員数67名で当会が発足しました。当時の発起人、役員のご努力と事務局のご協力がなければ今日の「古文書を読む会」・「土曜古文書会」は無かったでしょう。
 私も、平成元年に入会しまして以後古文書熱に取り付かれ、例会には毎回参加させていただいていますが、能力のない私に何のめぐり合わせか「古文書を読む会」の会長を務めることとなり、今更ながら初代会長井上嘉重さん及び沼尾喜一郎さんのご苦労は如何ばかりだったかと推察しております。発会後、会報の発行、自習会の実施等順調に会の事業も発展し、平成2年には沼尾さんが会長に就任され、平成5年に県立公文書館が完成、一時は当会が存続できるかと心配しましたが、県立文化資料館及び県立公文書館職員のご協力により無事県立公文書館に活動の拠点を移すことができ、今日に至っております。沼尾会長はじめ我々の心配は、活動拠点の移動により会員の方々が「どのように変化するか」、「会員数の増減の予測は」、「運営方法は」等々でした。
 幕を開けてみれば、予想以上に地元旭区の方々の入会が増加し、平成6・7年と急増したが、その後は8・9年と安定した会員数で推移したので、役員一同一安心いたしました。平成10年の総会を機に、沼尾会長が健康上の理由にて退任したい旨、申し入れがあり、8年間も会長を務められたことでもあり、沼尾さんのご指名でもあり、やむを得ず私が引き受けることとなりました。ところが平成10年より又々会員数が急増し、例会出席者が会場の定員を超える状態となり、会員数を定員制として制限するか、二分するか、いずれかの対策が求められ、入会を望まれる同好の方々の為にも、ご要望に答えねばならず、検討の結果、別に会を設立し、入会希望を募り、従来の「古文書を読む会」では一年間、入会をお断わりすることとしました。

講座風景
 そして、新しく平成12年に馬場富子さんを会長に「土曜古文書会」が発足、役員始め会員の皆様のご協力により素晴らしい発展をとげられ、現在では会員数も200名を超えております。
 今後は、両会とも特色ある企画により、会員の皆様のご要望に応えられる運営をしてまいりたいと思います。

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収蔵資料紹介

知事事務引継演述書(昭和22年3月)

 昭和22年3月、当時の神奈川県知事内山岩太郎は1ヶ月後にひかえた知事選挙に立候補するため知事を辞職しました。この年の4月に予定されていた知事選挙は、明治政府以来継続されてきた国の任命による知事ではなく、初めて県民の投票によって知事を選ぶものでした。国の地方官としての知事から地元住民の公選による知事への変更は、戦後日本の地方自治の精神を象徴するできごとでした。

知事事務引継演述書
 ここに紹介する資料は、辞職した内山元知事から官選による最後の知事渡辺広へ知事の事務を引継ぐために作られたものです。表紙の次の頁には、「事務引継演述書」とあり「右の通り事務引継をする 元神奈川県知事内山岩太郎」、「右の通り事務引継を受けた 神奈川県知事渡辺広」と二人の名が記入されています。
 知事引継書は県庁の各課から提出された引継書を一冊に綴ったもので、その記述は各課事務の分担内容、執行状況、懸案事項などがまとめられ、当時の県行政の概要を把握するには格好の資料になります。また、戦地からの引揚者受入や農地改革などの記録は、県行政の概要だけでなく当時の社会情勢の一端を知るのにも好材料を提供するでしょう。公文書館で保存している知事引継書け、この他に「昭和15年事務引継演述書(飯沼一省から松村光麿への引継)があります。内山元知事は4月5日に執行された知事選挙によって再び県知事に選出され、以後昭和42年までの21年間、知事の職を担当することになります。

行政資料課 石原一則


三田家文書(当館寄託資料)

 三田家文書は、川崎市高津区上作延にお往まいの三田理氏の家に伝来した文書です。
 三田家は、寛永16年(1639)に上作延村の名主伊右衛門としてその名が見られ、歴代伊右衛門を通称し同村の名主を世襲した家でした。「新編武蔵風土記稿」には、「舊家者百姓伊右衛門 三田を氏とす 弾正憲清か弟某が末孫」と紹介されていますが、同僚久保田和彦氏の調査によれば、当家は、桓武平氏の子孫相馬氏一族で、武蔵国杣保三田谷(現在の青梅市・奥多摩町)の有力な領主でした。居城勝沼城を拠点に関東管領上杉氏に属し後北条氏と戦った戦国武土でもありました。現在、三田理氏が所蔵される天正2年推定三田筑後守忠政書状や寄贈の同筑後守所有田畑を書き上げた文禄3年(1594)の帳面は、三田家が中世社会において武士に出自をもつ家であったことを教えてくれます。
 また、江戸時代後期当家に生まれた菅子は、幼少より書画・和歌に親しみ近江国の僧で歌人の大寂庵立綱に入門し、女流歌人として和歌を今日に残しました。歌集「竹芝の露」はその一つで「わが谷戸の梅のはつ花咲きにけり、鶯さそう風は吹かなん」と作延の谷戸に咲いた早春の梅を詠んだ歌があります。

上作延村卯御年貢御請申手形
 御寄贈の三田家文書は、文禄三年から昭和35年にいたる総数935点で、史料構成は、年貢割付等上作延村名主関係文書と三田菅子関係資料等当家に関わる史料から成っています。名主関係文書の中から、妻子が年貢未納の代償とされた一通を紹介(写真)しましょう。年貢は、早魃・虫害等の自然災害が伴うなかでの生産であり、妻・子も一家の生計に大切な労働の担い手であったはずであります。そんな中、年貢皆済が期限に遅れることがあれば、妻や子を取り上げられても「少しも御恨み有間敷候」と誓約させられています。領主による年貢取立の過酷さと妻子の役割とを示した文書です。

郷土資料課 田島光男

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歴史情報収集の充実―寄託資料の紹介―

 掲出しました写真の史料は、江戸時代、幕府の法令を広く一般の人々に知らせるために作成された文書で、「触」または「御触」「御触書」ともいいました。
 まず老中が将軍の裁決を経たのち書付の形で、大目付・目付・三奉行・京都所司代などに伝えられ、その写しを町役人・村役人(名主)のもとに送って一般に触れさせました。また各藩では、これを伝達するほか、藩独自の法令等を「付」(つけたり)として追加して、領内に触れさせました。次に読み下した史料は、小田原藩から出されたものです。

  松田町萱沼 安藤家寄託資料 天保8年(1837)11月

   条々

一 公儀御法度の趣き、厳重に守り奉る可き事

一 万一切支丹宗門之れ有るに於いては、早速之を注進すべし、公儀御定め之外、御褒美下し置かる可し、若し脇よりあらわるるにおいては、其の村之名主・組頭・五人組ともに重科為る可き事

一 御伝馬人足其外公儀御定之通り、諸事相い勧むべし、往還之旅人昼夜にかきらす、人馬滞り無く出すべき事

  付、駄賃人足御定め之外、増銭取るべからざる事

(以下略)

 全32ヶ条にわたって書き記されています。慶安2年(1649)に出されたいわゆる「慶安の御触書」のような勧農・勤勉・節約など日常生活の心得から家族関係への干渉にまでふれていませんが、幕末の治安維持や再度にわたって幕府の政策維持をはかる側面もみられます。これらの触書は、村の名主を通して村民に説き聞かせるといった形をとりました。従って名主は、村民の代表者であると同時に行政官として支配の末端に位置づけられ、村と領主とを媒介する公的な役職になっていました。名主は、村の代表として、幕藩領主からの情報(御触・廻状等)を村人に伝達することを義務づけられ、かつ村人からの情報(出生・死亡・土地移動・訴訟等)を収集し、管理することを村人からも公認されていました。またこれらの村方の公的情報を継承することが、名主役として村人・領主双方から認めれることにもなったのです。
 今日、旧名主宅に伝存している「検地帳」「年貢割付状」「宗門人別帳」「村明細帳」等は、引継ぎの対象となった典型的な村の公文書です。名主が交代すると、これらの村方文書の引継目録が作られ文書と共につぎの名主に引き渡されました。

条々
 名主の村支配が行き届き、領主への年貢負担も無事すませ、上納金完納・勤務成績や職務遂行も優秀であった事に対して、苗字帯刀が許されることは、名主にとって大変名誉なことでもあり、村の中での権威が一層高まることになりました。しかし、名主はこれらの情報を一般村民には公開しなかったので村民の識字能力が高くなった江戸時代中期以降になると情報の公開を要求する村民と、しばしば争論を起こすことにもなりました。

郷土資料課 小松郁夫

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ある日のレファレンスから

質問

市町村の例規集がインターネット上で見られると聞きましたが、どの程度なのですか。
また、CD-ROM化されているとも開きましたが、こちらも答えてください。

回答

視聴覚コーナー
 県内の市町村の例規集の提供状況は、表1のとおりです。インターネット上で例規集を公開しているのは9市町とまだ少ない状況ですが、今後は増えていくと思われます。また、CD-ROMについては5市、冊子形式も3市あります。現在は、加除式の例規集がほとんどですが、徐々に切り替わっていくものと思われます。
 公文書館では、こうした状況を踏まえ、平成13年7月1日から閲覧室内にCDやビデオ等の閲覧ができる視聴覚コーナーを設置しました。ビデオは、昭和25年からの神奈川ニュースがあり、50年前の神奈川県の様子など、貴重な映像を見ることができます。なお、利用を希望される場合は、閲覧室受付にお申し出ください。また、わからないことがありましたら、係員にご遠慮なく、お気軽にお尋ねください。

表1 県内における市町村例規集の提供情報2002年1月31日現在
市町村名等インターネットCD-ROM例規集(本)例規集(加除式)備考
神奈川県
横浜市
川崎市
横須賀市
平塚市
鎌倉市
藤沢市
小田原市
茅ヶ崎市
逗子市
相模原市
三浦市
秦野市
厚木市
大和市
伊勢原市
海老名市
座間市
南足柄市
綾瀬市
葉山町
寒川町
大磯町
二宮町
中井町
大井町
松田町
山北町
開成町
箱根町
真鶴町
湯河原町
愛川町
清川村
城山町
津久井町
相模湖町
藤野町
9(8市1町)5(5市)3(3市)28(12市15町1村)

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コーヒーブレイク

 私の趣味はゴルフ、麻雀、読書、旅、お酒と数多くありますが、今回は肩の凝らないゴルフの話をします。私がゴルフを始めたのは、県に就職して数年後の20歳代の後半、先輩や同僚に勧められたのがきっかけでした。何回目かのブームとなった昭和40年代中程のある日、先輩からゴルフショップに連れていかれ、中古のクラブを買うはめになり、その後練習場へも。初めてのゴルフスイング、簡単にボールに当たるものではありません。たとえ当たったとしてもゴロかトップ状態、しかも真っ直ぐは飛ばず、すべて右方向、止っているボールをどうして真っ直ぐ打つことができないのか。子供のころから野球に親しみ遊んでいた私、飛んでくるボールならいざ知らず、止まっているボールをなぜうまく打てないのか、歯ぎしりしながら、むきになってクラブを振るが尚更当らない。これを見ていた先輩氏、ニヤニヤ笑いながら「ゴルフは易しくないんだよ」。その後は手取り足取りのコーチング、私の手はすっかりマメだらけ。負けず嫌いな本人、それからは休日を利用した週一回の練習場通い。これを暫く続け、いよいよコースヘ登場となるが、これが簡単にはいかない、力みすぎて空振り、当っても右方向へのスライスボール、OBの連発、スコアにならない、あらためてゴルフの難しさを思い知らされる。同行してくれた先輩氏曰く「ゴルフは簡単に上手くならないんだよ」。それからはゴルフ関係の雑誌やレッスン書を読み漁り、テレビのゴルフ番組はレッスンにしろ、プロの競技にしろ全て視聴し、さらには相変わらずの週一回の練習場通い、勿論、時にはコースにもトライしながら・・・。
 これを何年続けただろうか。漸く他のプレイヤーに迷惑をかけない人並みにラウンドできるようになる。その後、自分達のプライベートコンペを作ったり、様々なゴルフコンペにも参加するようになった。勿論ハンディ戦ではあるが、時には優勝も、それも一回だけではなく二回、三回となり、スコアも先輩を上回るようになる。ここで先輩曰く「彼にゴルフを教えたのは俺だ」と、そのとおりである。最初の導きがなければ今日はないのである。
 あれから30年以上経った今、「最近は殆どやっていない」と先輩は言う、健康のためにも今後とも続けて欲しいと思うのだが・・・。今更ながら改めて感謝、感謝・・・。

県立公文書館長 三厨昭治

神奈川県

このページの所管所属は 公文書館 です。