公文書館だより 第15号

掲載日:2011年3月15日

徳川幕府裁許絵図(とくがわばくふさいきょえず)

 この絵図は、寛文6年(1666年)半原村と田代村(現愛川町)との間で起こった村境争論に当時司法の最高機関である幕府評定所が判決を下した裁許絵図の原本です。
 絵図の裏(写真上段)に書かれた判決文には、右から勘定奉行、町奉行、寺社奉行の順で各2名と老中4人全員が署名と黒印(こくいん)を押しています。署名最後(美濃)の老中は、小田原藩主 稲葉正則です。

大矢家文書(寄託)

裁許絵図裁許状
       裁許絵図 (原寸 1000×1360)                              裁許状 (原寸 1000×1360)

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展示を終えて
平成17年度 第3回企画展示 古文書にみる近世庶民のくらし―かながわの江戸時代―

 今回の「古文書にみる近世庶民のくらし」では、江戸時代の神奈川県内の一般の人々の生活に焦点をあて、4つの章で展示を構成しました。
 第一章「日々の暮らし」では、毎日の生活の中で、彼らが何を思い、考えていたのかを当時の人々が残した記録から読み取ってみました。小作料の引下げを要求した小作人が、徒党を組んで強訴したことの始末書や、不作が続いたことによる年貢の減免願など、彼らの生活に直結した文書を紹介しました。
 第三章「参詣と遊山」では、県内有数の信仰の地である大山と、鎌倉・江ノ島など観光地の記録、さらに伊勢参りに関する書付などを展示しました。大山は関東近郊の人々の信仰を集め、御師と呼ばれる世話人の引率による参詣が行われていました。また、伊勢参りは江戸期に何度か参宮のピークがあり、その都度大勢の人々が伊勢を訪れました。この費用を捻出するために、講を組織して金銭を積立てた記録もあります。
 歴史の概説書などにはない庶民のくらしを、少しでも身近に感じていただければ幸いです。

「連印一札之事」(部分) 「覚」
     「連印一札之事」(部分) 菅沼村安藤家文書(寄託)            「覚」 野島浦鈴木家文書

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『省■録(せいけんろく)(■は「侃」の下に「言」)』

ミニ展示 佐久間象山の書簡 開催期間 1月11日から2月28日まで

 平成17年度第5回のミニ展示は、幕末の思想家、佐久間象山の書簡を紹介しました。信州松代藩士であった象山は、幕末の海防係を務めた藩主 真田幸貫の下、海外事情の調査を通じて西洋の進んだ技術を知り、開国し西洋の技術を取り入れての国の固守を主張します。その後、自ら西洋砲術・蘭学を学び、江戸藩邸などで教授を始めます。日米和親条約締結時には、下田開港に反対し横浜開港を訴えますが、最終的に下田開港が決定します。さらに、これに前後して決行された弟子 吉田松陰の渡航計画に連座し、象山も投獄されます。その獄中で著された『省■録(せいけんろく)(■は「侃」の下に「言」)』には、「東洋道徳・西洋芸術」(伝統的社会政治体制の保持と先進的西洋技術の導入)という、象山の思想をよく表した言葉があります。やがて蟄居放免となった象山は、幕府の徴用を受けて上洛、海陸御備向手附御雇に任じたれ、公武合体・開国進取の考えのもと活動しますが、半年を経ずに斬殺され、その生涯を終えました。
 この書簡は、晩年在京時に、幕府の鉄砲関連の職に就いていた小林祐三に、信州下戸倉宿問屋 高野次左衛門が造硝の御用を請け負える様に紹介したものです。

佐久間象山書簡
       「佐久間象山書簡」 山ロコレクション(寄贈)

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ミニ展示を終えて 苦痛と苦難の歴史 ―ある病の記録―

 平成18年3月9日から3月31日まで、ホール内設置展示ケースでミニ展示「苦痛と苦難の歴史―ある病の記録―」を開催しました。当館が所蔵しているハンセン病対策に関係する資料を展示し、神奈川県が行なったハンセン病対策の内容や、当時の社会情況を示す公文書などを紹介しました。
 展示内容は全期間を3つの時期に分け、それぞれ 1戦前期神奈川のハンセン病との関わり、2戦後のハンセン病対策、3患者たちの置かれた情況、というテーマで展示替えを行ないました。

展示風景
 「戦前期神奈川のハンセン病対策との関わり」では、戦前期に神奈川県が運営に関わった全生病院(現在の多摩全生園)への負担金などに関係した文書を紹介しました。
 「戦後のハンセン病対策」では、療養所への入所を拒んで逃走する患者への措置に関する厚生省との協議文書や、密入国患者(実際には朝鮮半島出身者や台湾人などを含む)への取り締まりに関する文書などを展示しました。
 「患者たちの置かれた情況」では、近隣住民からのハンセン病患者と疑われる人物への調査を依頼する投書や、列車内で患者と疑われた人への検診状況報告書を展示しました。また、県衛生部が行なった入所勧奨の実態を示す公文書も紹介しました。
 今回の展示では公文書を通して、行政の病への対応や彼らを取り巻いた社会情況、そして患者たちが感じた苦痛や苦難について少しでも伝えるきとができたのではないかと考えています。

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資料紹介

『相模川河水統制〔工事〕竣工報告』
昭和25年度完結・平成16年度引渡し
請求番号BH16-9-36


 相模・津久井のダムと発電所建設を主体をする一大プロジェクトは、昭和15年11月25日に工事着手し、戦局の進展に伴い、完成も危ぶまれたのですが、昭和25年3月31日に当初計画分が完成しました。資料冒頭部分にはこのように記されています。(元文のまま)

 「我が国未曾有の混乱期に遭い、関係書類もその多くを散逸し、焦慮し乍ら何とかして御命令の職旨にそはんものと極力調査の結果、ようやく今般、別冊の通り竣功並に実施設計変更調書を作成したので、茲に竣功並に実施設計の変更を報告致す次第であります。」

 総工費2億3千万円余、延人員360万人。56人の死者と勝瀬部落全村90余戸の立退きという犠牲を伴う工事でした。

『相模川河水統制〔工事〕竣工報告』の画像
      『相模川河水統制〔工事〕竣工報告』

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所蔵資料紹介

古文書資料 金子家文書(寄託資料)

こ の文書は、金子浩一郎氏から寄託された武蔵国久良岐郡松本村名主・戸長文書を初めとする江戸時代から昭和戦前期に至る金子家伝来の文書です。江戸時代の文書には、天正19年10月武州久良岐郡杉田下郷御縄打 手帋(写)、寛文2年下郷松本村田畠屋敷永引帳(原本)、享保9年保土ヶ谷町御伝馬諸入用書上、地域の特色を示す幕府評定所の判決に迄及んだ明和8年松本・関・雑色村と最戸・久保・弘明寺・中里村との青木堰土取場をめぐる出入(訴訟)に関する一件文書、村絵図等があります。明治時代以降は、明治2年旗本3人が上知し神奈川県役所に提出された松本村全体の年貢収納に関する控文書が有ります。明治期当家には1899年3月22日米国へ旅立ち当地で社会主義者として生きた金子喜一がいます。喜一氏には、氏が米国在住時に発表した論稿を一冊にまとめた著書に堺利彦等が序文を寄せた『海外より見たる社会問題』(明治40年5月平民書房発行)や直筆原稿「日本に於ける労力の地位」があります。喜一氏に関する研究は、昭和39年(1964年)瀬沼茂樹が日本文学で取り上げて以来、今日に至るまで数編見られます。
 掲出写真の文書は、松本村が徳川幕府領細井九左衛門支配から3人の旗本に分割された時の原本です。

武蔵国久良岐郡松本村割郷水帳の画像
                       武蔵国久良岐郡松本村割郷水帳

神奈川県

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