公文書館だより 第16号

掲載日:2011年3月15日

通常展示 資料にみる神奈川の歴史 開催期間 平成18年5月18日から8月31日まで

 今年で7回目となった通常展示「資料にみる神奈川の歴史」ですが、多くの方々にご来館いただき無事最終日をむかえることができました。今回の展示では絵図類を多く使用し、文字以外の資料からも、神奈川の歴史を概観していただけるよう工夫いたしました。楽しんで頂けましたでしょうか。
 中世の資料は「禁制」や「制札」といった幕府や戦国大名が治安維持のために出した文書を集めてみました。それぞれの時代の特徴がよく表れていたかと思います。また、江戸期の資料では新規に寄託された資料(松本村金子家文書)や初公開資料(旗本大澤家文書/寄託など)を数多く紹介しました。なお「絵図」に関しては、今年度第3回企画展示として、「絵図にみるかながわ」を予定しております。
 近現代につきましては、常に新しい資料の発掘を心がけておりますが、今回は、大きく戦前から戦中そして戦後に分け、5つのテーマを設定しました。戦前から戦後では、神奈川県誕生の資料、関東大震災の記録、疎開・空襲関係の資料を紹介しました。特に震災関係と空襲・疎開関係は、何回か来館された地元の中尾小学校の子供たちにも興味を持ってもらえたようです。身近なところから公文書館に親しんでいただければ、展示開催の一つの成果に成るかと思います。戦後は、復興期における福祉・衛生関係と厚木基地問題についての資料を紹介しました。福祉・衛生関係については、先頃話題となりました「らい病」関係の資料も紹介しました。また、厚木基地問題については特に若い人からの反響が大きかったようです。
 今回見学された多くの方々から「もっとアピールした方が良いのでは」というご意見をいただきました。これからは、展示内容の充実とともに、公文書館事業の柱でもある「資料の利用」を促進するために、広報のあり方についても考えて行きたいと思っております。

「下笹下三ヶ村絵図面」の画像陳情書(未亡人援護の件)の画像
      「下笹下三ヶ村絵図面」金子家文書(寄託)                陳情書(未亡人援護の件) 


ミニ展示を終えて 戦前期社会教育関係資料 開催期間 平成18年7月13日から8月31日まで

 平成18年7月13日から8月31日まで、ホール内のケースでミニ展示「戦前期社会教育関係資料」を開催しました。当館所蔵の戦前期の社会教育(当時は通俗教育)の資料を用いて、戦後の社会教育の先駆けとなる戦前期の動向を紹介するとともに、9月27日から始まった企画展「かながわの青少年」につなげるのが狙いでした。
 このミニ展示では、2つのテーマを置いて展示換えを行いました。1「青年訓練所関係資料」、2「成人教育・職業教育関係資料」がそのテーマです。
 「青年訓練所関係資料」では、大正15年に設置された青年訓練所について、その教科内容の詳細や具体的な教練予定表及び、出席率の低下に伴う出席奨励に関する資料を紹介しました。

展示風景

 「成人教育・職業教育関係資料」では、未就学者を対象に実生活に必要な知識・技能を授けた成人教育講座と、昭和初年に叫ばれた児童生徒の個性を尊重した職業教育の推進についての資料を紹介しました。この青年訓練所や成人教育講座をはじめとして、戦前期にはさまざまな社会教育が行われましたが、戦局が急を告げるにつれて、その内容は戦争を遂行するための国威発揚的な教育へと変化してゆきました。
 当館には戦前期社会教育に関する資料がまとまって保存されています。今回紹介しきれなかった資料については、また別の機会に紹介していきたいと考えています。


ミニ展示を終えて アーネスト・サトウの書簡 開催期間 平成18年5月10日から6月30日まで

 平成18年度第1回のミニ展示は、幕末から明治にかけて日本で活躍したイギリスの外交官、アーネスト・サトウの書簡を紹介しました。
 サトウは1843年ロンドン郊外に生まれました。18歳のときに通訳生として来日し、生麦事件や薩英戦争など立て続けに大きな事件と遭遇します。1866年に匿名で発表した私的な論説は、『英国策論』として販売され、趨勢に影響を及ぼしました。一つの国家の時代がかわっていく巨大なうねりの中に身をおいた青年は、後年この時をふり返り「人生で最も活気に満ちた時代」と記しています。
 この書簡は、1867年(慶応3年)11月9日、イギリス公使パークスの命令で、兵庫開港と大坂市場開設の視察のため大坂に到着したサトウが、薩摩藩士 吉井幸輔に来訪を願った書簡です。サトウは幕府側、反幕府側ともに関係を持っていましたが、この書簡からは、反幕府勢力とのつながりがうかがえます。

「エルネスト(アーネスト)・サトウ書簡」
            「エルネスト(アーネスト)・サトウ書簡」 山ロコレクション(寄贈)

このページの先頭へもどる


ミニ展示 井伊直弼の書簡 開催期間 平成18年9月13日から10月29日まで

 平成十八年度第三回のミニ展示は、幕末の大老 井伊直弼の書簡を紹介します。
 井伊直弼は、11代彦根藩主 井伊直中の十四男として生れましたが、世継であった兄の死により彦根藩世子となり、後に幕府の大老を務めました。しかし、開国や将軍継嗣の問題をめぐる対立の末に起きた安政の大獄で恨みを買い、江戸城桜田門外で水戸浪士らに暗殺されました。
 この書簡は、直弼から三条実万にあてたものです。井伊家と三条家は親密な間柄で、直弼と実万の関係も円満でした。この書簡でも、直弼の元を訪れた実万に対し、直弼は厚い感謝を表しています。しかし、開国や将軍継嗣の問題で二人は疎隔してしまいます。実万は安政の大獄の直接の原因となった戊午の密勅降下に関与し、安政の大獄時に出家・謹慎を命じられ、その後病没します。
 この書簡は、まだ両家の間柄が良好であったころを忍ばせます。

「井伊直弼書簡」
              「井伊直弼書簡」 山ロコレクション(寄贈)


所蔵資料紹介

歴史的公文書

「昭和38年 防災関係綴(鶴見列車事故)」(30-4-3-801)

 今回ご紹介するのは昭和38年(1963)に発生した鶴見事故に関する公文書です。
 鶴見事故は昭和38年11月9日の午後9時50分頃、横浜市鶴見区生麦町の国鉄(当時)横須賀線で発生した列車事故で、死者161名、重軽傷者79名という大惨事でした。事故の詳細は、最初に貨物列車の後尾貨車3両が脱線し、隣の東海道線軌道上に転覆します。同じ時刻に横須賀線下り列車が貨物列車の事故を確認し事故附近に停車します。しかし、1分後に横須賀線上り列車が貨車に衝突し、さらに停車していた下り列車にも乗り上げたことで被害が拡大しました。
 鶴見事故は三河島事故や桜木町事故などとならんで、戦後の大規模な国鉄の電車事故の一つに数えられています。

防災関係綴(鶴見列車事故)
 本資料は、県企画調査部防災消防課や県警から国へ提出された事故報告書が中心となります。また、事故発生時に被害者の救出・遺体の搬送に尽力した地元自治会・消防団への表彰に関する文書や、事故現場の写真なども含まれています。また、当館には図書資料として『東海道本線鶴見列車事故技術調査委員会報告』(K686-0-0094)や、写真資料の「鶴見事故協力者表彰」(広報課撮影写真コレクション)を所蔵しています。
 これらの資料を通して鶴見事故の全貌をうかがうことができます。

このページの先頭へもどる


古文書資料 石井家文書(寄託資料)

 津久井郡藤野町沢井石井達也氏宅に伝来した慶長9年(1604)から大正15年(1926)に至る古文書です。当家は、六郎兵衛を名乗り石井源左衛門家と共に江戸時代初期から沢井村名主を務めてきた家柄で文書群構成も旧沢井村名主・戸長文書が中心です。文書内容は、近世村落としての成立と展開、村人達の生活様相を知る史料であり、御林山の立ち枯れ調査報告や伐採積出書上等は山村ならではの林野文書です。また、当家の文書から次の事を知ることが出来ます。沢井村は、山間とはいえ寛政10年(1798)に戸数82軒、男244、女208人の集落でした。女性の総数が少ないけれどこの年70歳以上の男女数は、男8人に対し女18人であり女性の方が長寿であったことが解ります。ちなみに最高齢は女性の88歳次は男の85歳です。村民の生活は、農業の合間の仕事として男は秣・薪・肥やしの支度、柏材の炭焼き、女は養蚕・京おどり紬の織物をして暮らしていました。他に労働の担い手として馬(20疋)が飼われていました。

武蔵国久良岐郡松本村割割水帳
 掲出写真は、江戸幕府が開かれて半世紀後の寛文4年(1664)の文書です。江戸時代前期、農民が家督以外にどの様な名前を持っていたかを知る貴重な文書です。かま・たん等の名は男女とも使用しており、共通使用例として他にけさ・みや・たつ・さる等の名もあります。

神奈川県

このページの所管所属は 公文書館 です。