公文書館だより 第22号

掲載日:2011年3月15日

神奈川開港・開国150周年メモリアルイベント

横浜開港と神奈川―神奈川奉行から始まる神奈川県の歴史―

開催期間:2009年6月2日から30日まで

 2009年が、神奈川(横浜)が世界に向けて開かれてから150年目にあたることから、神奈川県でもこの開港150年を祝うメモリアルイベントを3年ほど前から計画し、その準備を進めてまいりました。当館においても「横浜開港と神奈川」というタイトルで特別展示を開催することを決め、展示資料の選定を始めました。

大江卓宛大旆の画像縁裂および刺繍部分

        大江卓宛大旆(修復後)                                縁裂および刺繍部分(修復後)

 今回の展示のメインとして、当初からマリア・ルス号事件が解決された後、直接裁判に関わった神奈川県権令の大江卓と、当時外務卿だった副島種臣に横浜中華会館から贈呈された大旆(たいはい=大きな旗)を考えていましたが、制作されてから130年以上が経過しているため、経年劣化による傷みが酷く、展示に耐えられるような状態ではありませんでした。そこで半年かけて修復作業を行ったのですが、この中で新たな発見がありましたので、今回はその報告をさせていただきます。
 上の写真をご覧ください。この大旆は鮮やかな刺繍の中に金色の文字で感謝の言葉や漢詩が記されています。この文字は従来金泥(金粉を膠水で溶きまぜたもの)で書かれているとされてきましたが、今回の修復時の調査で、胡粉を膠で溶いたもので文字を書いた上に粒の細かな金粉あるいは金箔を乗せて仕上げたものであることが判明しました。現在、文字が白く見えるのは、金が剥がれおちて地の胡粉と膠が露出しているからだったのです。また、縁裂の下にも刺繍が施されていることがわかりました。以上は今回の展示の準備にあたって発見されたことの一部にすぎません。新たな発見があり次第お知らせしたいと考えています。

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展示を終えて

通常展示:資料にみる神奈川の歴史

開催期間/5月20日から9月13日まで

 毎年、年度の初めに行う「通常展示」も今年で10回目を迎え、ますますその内容が充実してきたといえるでしょうか。この展示は当館が所蔵、あるいは寄託されている資料を使って神奈川の歴史を紹介するというもので、資料整理をしているなかで新たに発見された資料なども紹介しています。
 今回前近代の部からは、中世の神奈川で展示しました「直江重光の書状」を紹介します。
 直江重光は上杉家の家老直江山城守兼続で、慶長12・3年以降に重光と名を改めました。この書簡は上杉謙信の側近であった山吉豊守(やまよしとよもり孫次郎)の流れを汲む山吉家が旧蔵していたもので、東京帝国大学文学部史料編纂所編の『大日本史料』第十二編之三十二には千葉きよ氏所蔵文書として掲載されています。山吉豊守は関東の小田原北条氏との外交を担当(申次=もうしつぎ)しており、当館所蔵の山吉家文書には北条との間で交わされた文書も数通残されています。

直江重光書状北条氏政書状

      直江重光書状(山吉家文書)                              北条氏政書状(山吉家文書)

 

 近現代の展示部分では、今年までの120年間を40年おきに区切り、3つの出来事を紹介しました。その3つとは、120年前の「東海道線全通」、80年前の「ニューヨーク株価暴落」、40年前の「東名高速道路全通」です。
 「東海道線全通」ではおもに山北町谷ヶの武尾家文書から当時の鉄道敷設工事を紹介しました。「ニューヨーク株価暴落」世界恐慌の影響による県内の不況と失業対策を歴史的公文書からふりかえりました。左の写真では、昭和5年(1930)の県内の失業率が全体で8.9パーセントと記され、今の不況よりも深刻であることがわかりました。「東名高速道路全通」道路計画から完成にいたるまでの様子を歴史的公文書でうかがいました。

 

「閣省許可稟申関係書類」

      昭和6年以降「閣省許可稟申関係書類」(歴史的公文書)

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ミニ展示:飯田家文書にみる近世の北綱島村

開催期間/5月9日から7月9日まで

 平成21年度第1回のミニ展示は、当館に寄託されている「武蔵国橘樹郡北綱島村飯田家文書」より、江戸時代の北綱島村に関する資料を紹介しました。
 村の概要を記載した資料である、享保14年(1729)の「武蔵国橘樹郡神奈川領綱島村鑑」(右写真)からは、村高や人口、地勢など、当時の北綱島村の様子を概観しました。また、年貢の徴発・収納の資料である、享保17年の「子年定免御年貢可納割付之事」および翌18年の「子年御年貢皆済目録」からは、村高に比する年貢の割合を算出し、いわゆる「五公五民」とは違うイメージを提示しました。

武蔵国橘樹郡神奈川領綱島村鑑の画像

     武蔵国橘樹郡神奈川領綱島村鑑

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ミニ展示:産業報国会の時代

開催期間/7月12日から9月9日まで

『不二』第16号
      『不二』第16号(比嘉盛広氏資料:当館所蔵)
 産業報国会とは、昭和13年(1938)以降、国、各道府県、全国の会社や事業所などにつくられた労働者を統制する組織のことです。国は戦時体制の強化をはかるため、ドイツにならい、全国の労働者を軍隊のように動かせるよう変えていきました。国は道府県を指導して産業報国会の結成を奨励しました。道府県は、労働組合のあったところには組合を自主解散させて産業報国会を結成するよううながし、労働組合のなかったところには産業報国会をつくるようはたらきかけました。労働組合と会社は対立させず、国や道府県、会社・事業所、社長から従業員にいたるまで、すべて一致団結して生産に向かわせる運動をめざしたのです。こうして国の大日本産業報国会の下に道府県の産業報国会が置かれ、さらにその下に所轄警察署ごとの支部、そして支部では会社や事業所単位の産業報国会(単位産業報国会)を取り込みました。
 上の写真は富士電機産業報国会機関誌の巻頭写真です。職場で朝夕にラッパの吹奏のもと、皇居の方角へ最敬礼をするところです。その後、敗戦後の昭和20年(1945)9月に国の大日本産業報国会が解散されると、都道府県の産業報国会も単位産業報国会も解散されました。

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所蔵資料紹介

行政刊行物・歴史的公文書


 今回ご紹介するのは、昭和50年(1975)の神奈川県議会9月定例会会議録(左下の写真)です。

 ここには「国際婦人年にあたり、婦人の社会的地位の向上をはかる決議案」が全会一致で採択された部分をのせてあります。この決議が出されたのは、昭和50年が国際婦人年であったことと関係があります。国際連合では世界的に婦人の地位向上をはかろうと、この1975年を国際婦人年と定めました。同年6月から7月、メキシコシティで開催された第1回女性会議では今後10年間の行動指針が立てられました。これをうけて県議会では先の決議が採択されるにいたったのです。第1回女性会議の閉幕後、3か月という異例の早さでした。
 その後、神奈川県では県レベルの行動計画をまとめ、本格的な女性行政を始めました。2年後の昭和52年、県民部県民総務室に婦人班が設置され、昭和54年には婦人総合センターの基本構想が策定されます。また県民各層の代表からなる「神奈川婦人の地位向上プラン策定委員会」に諮問し、そこで出された答申を、昭和57年に「かながわ女性プラン」としました。昭和57年は婦人総合センターが開館し、かつ県内の女性団体が結集してできた自主的な組織「かながわ女性会議」が発足した年でもありました。県にとってこの年は女性行政の3つの柱がそろった最初の年であり、まさに「かながわ婦人元年」(右下のポスター)だったのです。


神奈川県議会会議録かながわ婦人元年ポスター

    神奈川県議会会議録昭和50年9月定例会(行政刊行物)          「かながわ婦人元年ポスター」(歴史的公文書)


古文書資料

沼田家文書

嘉永5年江戸期村絵図

      嘉永5年江戸期村絵図(沼田米子氏寄託文書)

 当家文書は、法然上人が往生浄土を願い念仏往生の意義を一枚の紙に認めた「一枚起請文」の建暦2年(1212)から、明治17年「水車臼数増加願」に至る軸物・絵図・短冊で構成されています。軸物には日蓮上人宛文永11年5月2日付けの城左兵衛奉書、弘安2年日蓮筆曼荼羅。絵図は、旧下山口村(現在、葉山町内)天保14年、嘉永5年(掲載写真)の江戸期村絵図、明治期地籍図、他に三浦郡武村麁絵図、三浦郡四ヶ村海辺麁絵図、徳川幕府御用船寄港之図、源頼朝屋郭之図等。短冊は、俳句・川柳・和歌の内容から成っています。掲出の村絵図左上の紺色=下山川(河川)と朱線(道=秋谷村に向かう往来)とが交差した付近が、現在御用邸の敷地になっています。「水車臼数増加願」は、弘化元年7月に設置された水車による檮臼(つきうす)の営業拡大により臼の増設を神奈川県庁に願い出た文書です。政治が、武家政権の江戸幕府から新政権明治政府に変化しても生活のための願書提出行為は変わらず、願いは、文書により役所へ提出されていました。

神奈川県

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